犬追物(いぬおもの)(いぬおう)については『日本国語大辞典』に次のように記してある。
「武士の騎射(うまゆみ)の練習のために行なわれた馬上の三物(みつもの)――騎射の三式で、流鏑馬(やぶさめ)・笠懸(かさがけ)・犬追物の称――の一種。犬を追物射(おものい)にすること。馬場の小縄の内に頚縄をつけて犬を引きすえ、射手が削際(けずりぎわ)に馬を乗り入れ、犬射蟇目(いぬいひきめ)の矢をつがえて待つ。縄を切り放たれ、走り出して内〓示(うちほうじ)を越えようとする犬を、その縄際で射る。また、犬が削際に走り出れば、馬場中を追い回し、犬の傍に乗り寄せて射る。三六騎の射手が三手に分かれ、一五〇匹の犬を射る。平安末から鎌倉期に分けて行なわれ、応仁の乱で中絶、元和年間(一六一五~二四)島津家で再興された」
『貞丈雑記』には「東鑑には頼経の代、承久四年(一二二二)二月六日の記文に、始て犬追物の事を記して、其の後所々に犬追物の事見えたり。かの二月六日の犬追物も、此の日に始て此の事ありとも見えず。前にありしやうに思はるゝなり。実朝公の時始まるといふこと実説か」とある。
『那須郡誌』では『貞丈雑記』や『犬追物目安』の記事を述べたあとで「蓋し鎌倉に於て行はれたのは、実朝の時であらう。是れ当時の武士の遊戯として興行されたもので、其の起源は源頼朝那須野狩の時(建久四年一一九三)武士の騎射を練習する必要上行ったのに始まると言ってよい」と記している。
芭蕉は余瀬に到着してから六日後の、四月十二日に犬追物の跡を訪れている。案内の者からどのような説明を聴いたことであろうか、そうしてどんな感懐を持ったであろうか、興味深いものがある。