源頼朝は建久四年(一一九三)四月二日から同月二十三日まで、那須野狩を催した。以来那須野は狩場としてもてはやされた。
源実朝(金槐集)
武士(もののふ)の矢並(やなみ)つくらふ小手の上に
霰(あられ)たばしる那須の篠原
霰(あられ)たばしる那須の篠原
信実朝臣(夫木集)
道多き那須の御狩(みかり)の矢たけびに
逃れぬ鹿の声ぞ聞ゆる
逃れぬ鹿の声ぞ聞ゆる
権僧正(夫木集)
狩人(かりうど)の弓末ふりたてちかへども
笠はた見えぬ那須の高萱(たかがや)
笠はた見えぬ那須の高萱(たかがや)
那須野はこのように歌に歌われて、「那須の篠原」は歌語ともなっている。
しかし現在、蜂巣には字篠原(しのはら)という地名があり、ここに九尾の狐の霊を祀る(俗信)という玉藻稲荷神社がある。
なお境内には、前記の実朝の「武士の矢並つくろふ……」を刻した歌碑(昭和五十年にさわらび歌会建立)があり、池畔には芭蕉の句碑「秣(まぐさ)おふ人を枝折(しをり)の夏野かな」がある。これは昭和三十四年に黒羽観光協会が建てたもので、大竹孤悠の筆である。