5 八幡宮

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「十三日 天気吉。津久井氏被見廻テ八幡へ参詣被誘引」(随行日記)
 この記事によれば、当日晴天に恵まれた。余瀬に住む津久井翅輪は、芭蕉と曽良を鹿子畑家に見舞った。そして余瀬の西南、約一・五粁のところにある「金丸八幡宮」に参詣すべく誘ったのであった。幾人同行したかは記されてないが、同じく余瀬に住む蓮実桃里、森田二寸、鹿子畑翠桃なども同行したのではあるまいか。この人たちいずれも歌仙に参加しているのである。
 余瀬から「金丸八幡」の所在地である、南金丸馬場坪に通じる道路は、いわゆる関街道の西街道である。(関街道については別記)
 江戸時代には奥州街道(旧陸羽街道)が開通(慶長九年)していたから、関街道はすでに官道としての使命は終ったわけである。芭蕉来訪当時は、農道とし残存していたのだ。
「八幡宮」については、津久井氏などからどのような説明があったのであろうか。那須余一は那須の総領であり、その子孫も長く那須地方を支配していたから、那須氏にまつわる歴史・伝説は豊富である。参詣の折にも那須氏と「八幡宮」とのかかわり合いなど、津久井氏やその他の人たちから口に出たことであろう。『ほそ道』には、
「それより八幡宮に詣。与市、扇の的を射し時、別しては我国氏神正八まんとちかひしも、此神社にて侍と聞ば、感応殊しきりに覚えらる。」

 とあり、芭蕉は余一の祈願し神社は、金丸のこの「八幡宮」と説明を聞いたのである。平家追討の際、屋島の戦に那須余一宗隆の挙げた、天晴れの武名を思い合せて、芭蕉は深い感動をおぼえたのであった。『平家物語』には、
「南無八幡大菩薩、我国の神明、日光権現、宇都宮、那須の温泉大明神、願はくはあの扇のまなか射させたばせ給へ、これを射損ずるものならば、弓きりおり自害して、人にふたたび面をむかふべからず」
 とある。また『源平盛衰記』では、
「帰命頂礼。八幡大菩薩、日本国中大小神祇、別しては下野国日光宇都宮、氏の御神那須大明神、弓矢の冥が有るべくは、扇を座席に定め給へ」

 とあって、どちらも「八幡大菩薩」と冒頭に出しているが、これは武の神の「八幡」であって、具体的に「金丸八幡宮」を指したのではない。余一が実際に祈願したのは、「那須の温泉大明神」「氏の御神那須大明神」であり、すなわち那須湯本にある「温泉神社」なのである。