6 余瀬

536 ~ 537
前にしばしばその名を記してきたが、翠桃の住んでいた余瀬とはどんな土地であろうか。余瀬の昔は粟野宿と称し、東山道(関街道ともいう)の宿駅の一つであった。鎮守の加茂神社の社伝によると、同社は醍醐天皇の延喜十三年(九一三)に、粟野の駅長粟野行麿が山城国加茂神社の分霊を、粟野駅の西丘(白旗城跡のある丘陵)に勧請したとあるのをみると、この時代にはすでに宿駅として栄えていたようである。
 東山道に粟野駅が成立した時代は明らかではないが、粟野という地名が示すごとく、この地は農産物の生産豊かな土地として、早くより開けておったもののようである。地形としては西側の丘陵が西北から延びて来て、白旗山で尽きて平地となる。丘陵の西から南へかけて平地が拡がり、湯坂川が流れて地を潤おしている。丘陵の東もまた平地で(ここに粟野駅、中央に東山道が南北に通じ)東部に大清水という湧水池がある。このように水利の便もあって農耕地の開ける、自然の好条件に恵まれていたわけである。白旗山の丘陵には、縄文土器の破片や、石器の類も夥しく出土されているし、地続きの湯坂地区には、古代の住居址も発掘されたのをみると、縄文時代の昔から人々は白旗山丘陵を中心に住みついて、農耕に従事していたことがうかがわれるのである。
 東山道の交通の要地であり、農産物豊かな地である粟野が宿、しかもその西の丘は源氏ゆかりの白旗山をひかえたこの地に眼をつけたのが大関家清であった。
 足利尊氏と弟直義が不和となり、両軍は駿州薩埵山(さったやま)に戦った(平正六年一三五一)。その時大関家清(那須氏の国人領主)は奮戦し、その功によって尊氏から松野、大桶の二邑を下賜され、しばらくの間松野に館を構えて居住していた。
 那須野に進出を企図した家清は、所謂四神相応の地として白旗山に城を築いて松野から移ってきたのは、応永年間(一三九四~一四二七)のことであった。これより後、大関高増黒羽城を築いて(天正四年(一五七六))移り住むまで(その間には一時、石上の台や山田城に移ったことはあったが)およそ八十年間、白旗城は大関氏代々の居城であった。
 粟野は宿駅として、また城下町として大いに賑わったのである。その盛時には大雄寺をはじめとして、帰一寺、新善光寺、常念寺、光明寺、東光庵および修験道の大正院、三蔵院、また鎮守加茂神社があって、戸数三百十四戸、市場を設け、あるいは繰(あやつ)り人形が上演されるなどして殷賑を極めた。
 大関高増が黒羽城に移るや、大雄寺をはじめ主な寺院等は黒羽城下に移築され、家臣団の多くは去り、それらの跡には雑草が生えた。それから間もなく、奥州街道が整備されるとともに、東山道の関街道は官道としての使命が終り、一地方道となってしまった。このようにして、さしも殷賑を極めた粟野駅(白旗宿、余瀬宿)は、時代の進展からとり残されて昔日の面影はなく、戸数数十戸の農村に変貌していった。
 芭蕉が訪れた元禄時代には、それでもまだ鹿子畑氏などの武家屋敷もあり、俳諧をたしなむ人びとも住み、寂れたとはいえ、関街道の路傍にはなお、芭蕉の心をひくだけの文化の花は咲いていたのであった。

関街道(余瀬)
元禄の昔、芭蕉と曽良がこの道を辿った。