7 光明寺・西教寺

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『隨行日記』には
一 六日ヨリ九日迄、雨不止。九日、光明寺ヘ被招。昼ヨリ夜五ツ過迄ニシテ帰ル。

 と、ある。芭蕉と曽良は四日以降続けて浄法寺宅に泊っていたが、九日には雨の中を昼ごろ余瀬の修験光明寺にやって来て、八時過ぎまでここに過ごし、また浄法寺宅に帰った。
 光明寺は今はない。津田武男氏の宅地が寺の跡である。黒羽向町からの余瀬街道右側、かって堀であった細長い田圃、そこから二メートル余の高さの台地が寺跡である。田の畦道を十数歩歩いて土手を登った左手に句碑
  夏山に足駄を拝むかどでかな  芭蕉
 が建っている。この句碑は篠原稲荷の境内に建つ「秣おふ」の碑と同じく、昭和三十四年に黒羽観光協会が建てたものである。文字は元文部大臣安倍能成の筆である。
 この修験光明寺には行者堂があった。堂内には一本歯の高足駄をはいた役(えん)の行者小角(おづぬ)の像が安置されてある。
 さて光明寺あたりから見る自然の景観は、東方に八溝山脈が南北に走って、北は奥州へ連らなって消えている。北には那須山脈の主峯那須山(茶臼嶽)が噴煙をあげ、その裾野は遥かにみちのくまでひろがっている。芭蕉は奥州路に連なるこの夏の山々を遠くに望んで、今長途の旅に出ようとしているのである。江戸を立って黒羽までの旅は、江戸文化圏内にある関東の地区内で、いはば足ならし、心の準備の旅であった。愈々これからが彼が目的とする奥陸への旅、本格な旅なのである。その強い感懐が「首途哉(かどでかな)」なので、首途(かどで)に当り、役の行者小角の健脚にあやかろうとしてその高足駄を拝み、遥かなる旅路の平安を祈ったわけである。
 芭蕉が訪れた時の住職は、第十七代津田源光(権大僧都法印)であった。源光の妻は翠桃の父左内高明の次女であるから、源光と翠桃とは義兄弟であった。芭蕉が訪れたのは翠桃の紹介によるものであろう。
 玉生から黒羽への途中、那須野が原で作った句
  かさねとは八重撫子の名なるべし   曽良
 の句碑は余瀬の白旗山西教寺の境内にある。「夏山に」の句碑と同じく、黒羽観光協会が昭和三十四年に建てたものである。長谷川かな女の筆になる。はじめ黒羽田町の役場前に建てられてあったが、そこにあるのは意味がないとて、芭蕉、曽良にゆかりの地余瀬に移したわけである。