3 仏頂和尚(一六四三―一七一五)

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(一六四三―一七一五) 鹿島根本寺二十一世住職であり、また江戸深川臨川寺の開山でもある。俗姓は平山氏、また藤崎氏ともいう。別号河南・懶華。
 根本寺二十世住職冷山和尚が延宝二年(一六七四)に遷化した。これを奇貨として、鹿島神宮はこれまでの寺領百石のうち、五十石を横領したのである。二十一世の住職に就いた仏頂和尚は、寺領を元に戻すべく訴訟を起こした。
 貞享四年(一六八七)勝訴するまで九年を要した。和尚はこの間を殆ど江戸に在住した。はじめは浅草の海禅寺内に宿泊していたが、後に深川宿泊所を設け臨川庵と名づけた。正徳二年(一七一二)には寺として認可されている。和尚の江戸在住期間のある時期に、芭蕉は参禅したのである。和尚は勝訴の見通しがつくと、住職の地位を二十二世頑極に譲って、自分は隠居した。芭蕉は鹿島詣の折に和尚を訪ねた。『鹿島紀行』には次のように記されてある。
 
 ひるよりあめしきりにふりて、月見るべくもあらず。ふもとに、根本寺(こんぽんじ)のさきの和尚、今は世をのがれて、此所におはしけるといふを聞(きき)て、尋入てふしぬ。すこぶる人をして深省を発せしむと吟じけむ、しばらく清浄の心をうるににたり。あかつきのそら、いさゝかはれけるを、和尚起し驚シ侍れば、人々起出ぬ。月のひかり、雨の音、たゞあはれなるけしきのみむねにみちて、いふべきことの葉もなし。はる/゛\と月みにきたるかひなきこそほゐなきわざなれ。かの何がしの女すら、郭公の歌、得よまでかへりわずらひしも、我ためにはよき何担の人ならむかし。
                     和尚
 おり/\にかはらぬ空の月かげも
  ちゞのながめは雲のまに/\

 月はやし梢は雨を持ながら     桃青
 寺に寝てまこと顔なる月見哉    同
 雨に寝て竹起かへるつきみかな   ソラ
 月さびし堂の軒端の雨しづく    宗波

 
 鹿島詣は貞享四年(一六八七)八月のことで、芭蕉四十四歳。曽良、宗波を伴い、鹿島神宮に詣で、参禅の師仏頂和尚を根本寺に訪ねて一泊。雨後の月見をした。その折の旅の紀行が『鹿島紀行』なのである。
 芭蕉は仏頂和尚の人格に深く傾倒し、常に師と仰いで敬慕して止まなかった。その思慕の情が、鹿島詣となり、更に雲巌寺詣ともなったのである。