五 黒羽を立つ

540 ~ 542
 四月三日に余瀬の翠桃宅に着いてから、同月十六日までの十三泊十四日間、黒羽においての長い滞在は愈々終りを告げる。
一 十六日 天気能。翁館ヨリ余瀬へ被立越。則同道ニテ余瀬を立。及昼図書禅蔵ヨリ馬人ニ而被送ル。馬ハ野間ト云所ヨリ戻ス。此間二里半余。

『隨行日記』にはこのように記されてある。十五日の晩、芭蕉は浄法寺図書の館に泊ったが、曽良は持病のため翠桃宅に在った。十六日の朝芭蕉は余瀬に戻った。この日は快晴であった。昼ごろ芭蕉と曽良は、図書・翠桃の兄弟をはじめ十四日の間に馴れ親んだ余瀬の俳人たちに別れを告げ、高久に向かって立発した。浄法寺図書は道案内に弾蔵という者を付け、馬は図書の指図により、余瀬の問屋本陣主人蓮実伝之丞政長(号桃里)が提供した。
 余瀬から野間への道筋は、現に点在する江戸時代の道標を線で繋いでみるとおよそ次のように推定される。余瀬――蜂巣――上ノ台――砂の目の西――下半田――半田――野間。
 『那須郡誌』では、余瀬――蜂巣――桧木沢――糠塚原――野間。その途中馬子に一句を所望され、高蕨原で
  野を横に馬ひき向けよそとゝぎす
 の句を詠んで与えたとしている。
 しかし元禄の頃と現在とでは土地の状況も大きく変化している。明治以降牧場や農場が設けられ、山野は開拓された。点在している旧集落の間に入植者の新しい集落もできた。特に最近では圃場の整備が急速に進み、道路も大きく変り昔日の面影をとどめないほどになってしまった。従って芭蕉の歩いた道はここであるとにわかには断定し難い。
 野間の集落に出れば、そこには平担な奥州街道が殆ど直線的に東北へ延びている。健脚の芭蕉は街道筋の風物を、わが脚で確めたかったのであろうか、馬はここで余瀬に戻している。
 
 是より殺生石に行。館代より馬にて送らる。此口付(このくちつき)のおのこ、短冊得させよと乞(こふ)。やさしき事を望侍(のぞみはべ)るものかなと、
  野を横に馬牽(ひき)むけよほとゝぎす
 殺生石は温泉(いでゆ)の出(いづ)る山陰にあり。石の毒気(どくき)いまだほろびず。蜂・蝶のたぐひ、真砂(まさご)の色の見えぬほど、かさなり死す。
 
〔句の意味〕広い那須野を馬の背に揺られながら行くと、道の横手に当る方で、ほととぎすの鳴く声がした。馬子よ、それ、鳴き声のした方に馬を引き向けてくれ。――もう一度ほととぎすの鳴く声を聞こうよ。


 芭蕉は黒羽滞在中に、一日(ひとと)郊外に逍遥して「犬追物」の跡を見学し、また「玉藻の前の古墳」を訪い、案内の者から九尾の狐の伝説を聞いた。広漠たる草深い那須野の人びとの間に語り継がれたこの物語に、芭蕉はいたく心惹かれたとみえ、金毛九尾の妖狐の化身と伝えられる殺生石を、この目で見たかったのである。
 さて「野を横に」の句が詠まれた場所は、余瀬から野間へ行く途中であるが、『わがふるさと』の記事に従って、高蕨(たかわらび)原あたりであろうと推定する。
「野を」の語で、広漠たる草深い那須野が原が展開する。野の果て遥かに那須の山なみが連なり、茶臼嶽が青空に白い噴煙をあげている。
「横に→ほとゝぎす」で、馬の背に揺られて辿る道筋の、横手の方面に当ってほととぎすの声が過ぎていった情景が詠まれている。
「横に馬牽きむけよ」の描写では、馬上の芭蕉、手綱取る馬子・徒歩の曽良、案内役の弾蔵たちの姿が浮かぶ。
「ほとゝぎす」、また鳴くであろう。しばし立ち止って聞こうではないかと、ほととぎすの鳴き声をもう一度求めているのが芭蕉なのである。
『ほそ道』の本文とは異るが、土芳の『蕉翁文集』には次のようにある。
 
    野を横の前書
 那須の原はる/゛\と行(ゆく)ほど、其さかひにしる人ありければ、馬にて送られけるに、口付(くちつき)のおのこいかゞおもひけん、一句仕(つかまつり)てゑさせよなむといへば、おかしく興ありて、ことにおもひて、矢立(やたて)さしぬらして、馬上において書遣(かきつかは)す。

 
 この文を読んでみると、「野を横に」の句は、馬子に乞われた即興の吟である。芭蕉この句が成ると、懐紙を取り出し、腰の矢立の筆をぬらして、さらさらとしたため馬子に与えたのである。この馬子に与えたという芭蕉の真蹟懐紙は現存している。
 なおこの句を刻んだ石碑が、鍋掛の公民館隣接の遊園地内と(元は八坂神社境内にあった)、黒羽向町の常念寺境内とにある。いずれも江戸時代末期の頃に、土地の俳人が建てたもののようである。
『隨行日記』の十六日記事後半には、
馬ハ野間ト云所ヨリ戻ス。此間二里半余。高久ニ至ル。雨降出ニ依、滞(トドマ)ル。此間弐里余壱里半余。宿角〈覚〉左衛門、図書より状被添。

 芭蕉一行は野間から奥州街道を北に、高久を目ざして歩いて行った。道は広く平坦、曲折も殆どないほどだから、もう迷うこともない。間もなく鍋掛の宿である。