(付)おくのほそ道の跡を慕って

542 ~ 543
 松尾芭蕉が黒羽の地を訪れてから七年後の、元禄九年に天野桃隣(寛永十六年(一六三九)――享保四年(一七一九))という俳人が黒羽にやって来た。彼は伊賀上野の人で藤堂氏の家臣、芭蕉とは血縁関係にあって、江戸に出て蕉門に俳諧を学んだ。太白堂、呉竹軒、桃翁等の別号がある。芭蕉の三回忌に当り、彼は師のおくのほそ道の跡を慕って、元禄九(一六九六)年三月十七日江戸を立ち、みちのく各地を辿り歩き、秋七月にこの旅を終った。後にこの紀行やその他を編集して出版したのが『陸奥鵆(むつちどり)』なのである。
 
 日光より今市へ出づ。大田原へかかりて、那須の黒羽に出(いづ)る。此処に芭蕉門人ありて尋ね入る。
  卯月朔日 雨
ものぐさき合羽(かつぱ)や今日の更衣(ころもがえ)
 はてしなき野にかかりて
草に臥(ふ)し枕に痛し木瓜(ぼけ)の剌(とげ)
 道より便をうかがひて
黒羽の尋ぬる方や青簾(すだれ)
行き行きて、館近(やかたちかく)、浄坊寺桃雪子に宿す。
 翌日興行
幾とせの槻をあやかれ蝸牛(かたつむり)
 余市宗隆の氏神、八幡宮は館より程近し。宗隆祈誓して扇の的を射たりと聞けば、まこと感応いやまして尊かりき。
 ぬかづくや扇を開き目をふさぎ
 玉藻の社・稲荷宮、ここ那須の篠原、犬追物の跡あり。館より一里ばかり行く。
  (法楽)木の下やくらがり照らす山椿
  黒羽八景の中
鵜匠どもつかふて見せよ前田川
夏の月胸にものなし飯縄山(いづなやま)
笠松や先づ白雨(ゆふだち)の逃げどころ
籠らばや八塩の里に夏三月
  行者堂に詣づ
手に足に玉巻く葛や九折(つづらをり)
  留別
山峯の跡おぼつかな白牡丹

 
「住まばやな八塩の里に夏三月 芭蕉」と刻んだ句碑が、八塩の那珂川の水神渕のほとりに建っている。この句は芭蕉の句ではない。右黒羽八景の中「籠らばや」の句を、「住まばやな」と読み替えている。また「笠松や」の句は、前田赤の台の笠松を詠んだものであるが、これも芭蕉の句として載せている書物がある。いずれも訂正を要する。
 桃隣もまた師の翠桃邸における歌仙興行にならって、四月二日に浄法寺桃雪邸において歌仙を興行している。桃隣にとっても、黒羽の地は魅力あったに違いないし、またこの地の人々の温かい心が、殊に嬉しかったことであろう。『陸奥鵆』の句や文章は文字の裏にそのことを伝えている。