近世になると、徳川幕府の宗教支配があったので、中世のような活気や精彩は失われたというが、仏教は庶民の生活の中にすっかり定着していったように思われる。
幕府はその政治体制の中で、「諸宗寺院法度」や「下知状」に基き、仏教を完全な統制と保護のもとにおいた。寺院法度は最初慶長六年(一六〇一)に、その後の寛文五年(一六六五)と、享保七年(一七二二)との計三回に亘って出されている。これによって、近世仏教の性格は、中世とは大きく変ったわけである。
幕府のこうした仏教支配に従って、各藩においてもそれぞれ領内の仏教を統制し、また保護も加えたのである。黒羽藩に関しては、前記のとおり藩政の中に寺社役を設けて、このことに当たらせたわけである。更に「規定雑類」巻中には、社寺に対する規定が設けられてあるので、その抜萃を次に掲げる。
一、雲岩寺罷り出で候節は、廊下橋の外、外形にて下乗、大小性御玄関杉戸内に相控え居り、御上段に引き通し、寺社役罷り出で、挨拶に及び、上げ物等受け取り、御用人へ相渡し、御用人御披露の事。終って御家老御用人挨拶に及ぶ。御前御都合次第、御用人案内にて御座の間へ同道御逢い成され、御菓子煎茶御煙草盆出し、退引の節御側詰所迄御送り遊ばされ候。それより御用人同道にて表御書院にて帰座、直ちに御料理御茶菓子出る。膳中御用人寺社役罷り出で挨拶に及ぶ。総て御側方給仕の事。
帰り候節(雲岩寺和尚)、御用人杉戸内迄送り、寺社役大小性御式台迄送り候事。
右帰り後見合い、御挨拶御徒士使いにて御捻(おひねり、包み紙の上部を捻つた御祝儀心付けの金銭)差し出し候事。
但し、伴僧御使者の間にて、一汁弐菜御料理下し置かれ、下部へも(従者の者)一菜付賄下さる。
雲岩寺上げ物、寺社役、中小性に持たせ、御次へ罷り出で、詰め合い御用人の内へ相達し、御用人より其の形相伺い、御都合次第御披露の事。
右帰り後見合い、御挨拶御徒士使いにて御捻(おひねり、包み紙の上部を捻つた御祝儀心付けの金銭)差し出し候事。
一、帰一寺にて年中の御祈祷は、正月中仰せ付けられ、祈祷料御初穂並びに俵数、油等下され候事。右の外御本掛御当掛星供(ほしく)の御祈祷などは、其の御代様の御信仰により候事にて、定式の儀とは相心得ず、御一代切りにて、御代々様御譲り、但し、三月御日待の節は、大般若仰せ付けられ、御初穂定式の通り下され候事。
一、神社仏閣御初穂等、定式の分伊勢両社、城州(山城国)愛宕、同稲荷、河州(河内国)、丹治比神社、武州(武蔵国)神田明神、同所山王社、湯島天神、蔵前八幡、千住宿天王、御在所(黒羽)大宮湯泉、那須温泉、金丸八幡、篠原稲荷、鎮国社、武州(武蔵国)浅草観音。
右の外其の御代々の御信心により、聞え々々の思召を以って、仰せ出され候間、後世の定式と相心得ざる事。
一、大雄寺入院の節は待ち受け、御馳走として物頭役相詰め、取締りとして御使者を兼ね、寺社役罷り出る。御料理一汁三菜、御茶菓子迄、相伴寺社役なり。和尚へ茶差し出し候節は、寺社役持ち出しの事。其の外の僧へ坊主(茶坊主)出す、次通しても二菜にて料理出る。但し、右申し渡し且つ相済み候由、御家老迄寺社役より相達し候事。物頭は達しに及ばず候事。入院後御礼の儀は伺いの上、御席次仰せ付けられ、其の節出席例の通り寺社役は勿論の事。上げ物一束壱本御家老披露の事。
一、帰一寺、光巌寺は待ち受け、御馳走取り締り御使者を兼ね、寺社役罷り出る。但し、帰一寺は御祈祷所に付き、吸い物酒一種、其の外は同断。御目見え指し上げ物等同断披露寺社役なり。
一、法王寺、長溪寺、心印庵、但し、長溪寺心印庵へは御使者これ無き事。待ち受け御馳走取り締りとして、寺社役罷り出る。御使者相伴兼給人。但し、檀中に給人これ有る寺は、檀頭給人相勤める。其の外前に同じ。
右入院の儀前広(まいびろ、以前に)月番老衆へ寺役申し達し置き、それ/\沙汰に及ばれ候事。御在邑の節は御使者御用人より申し談じ候事。
一、什物改め寺社役罷り出で候事。但し、新善光寺はこれ無き事。
なお寺院においては、とりわけ大雄寺(檀那寺)、帰一寺(祈祷所)、光厳寺、法王寺等は手厚い保護があった。「租入会計録」の中に記されてある、寺社石高は次のようである。
寺社
一、高弐百八拾石 大雄寺
内
弐拾五石三斗七升壱合 古検地地押引
残高弐百五拾八石六斗弐升九合
一、高百五拾石 帰一寺
内
拾三石四斗弐夕 古検地地押引
残高百三拾六石五斗九升九合八夕
その他の寺院、光厳寺、法王寺、新善光寺、長溪寺、常念寺、光明寺、医光寺、延寿院、吉祥院、寿命院、宝寿院、威徳院、一乗院等も石高が記されてある。
(注)詳細は、本誌、第四章「近世」、第一節「封建社会のしくみ」参照のこと。