四 講・念仏その他

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 〔講〕
 講とは宗教信仰者の組織する団体をいうのである。仏教系の集会として講の原形は、すでに奈良時代にあったようである。平安中期以降に浄土教の講が組織されたが、鎌倉時代にはいって新仏教の布教とともに、種々の講が組織されていった。近世にいたって講は郷村の隅々にまで行き渡った。
 講を大別すると、(1)村落内の講で、特定の寺社に属さないもの。(2)特定の寺社、教団に属するもの。(3)その他の講。
 (1)の形をとる講として、庚申講、十九夜講、二十三夜講などがある。月の一定の日に講員が集会を催すのである。例を一つあげる。
 ○庚申講
 中国の道教の神が仏教徒によって伝播されたものである。その神とは、三尸神(さんししん)という三匹の虫で、人間の体内に宿って病をおこすという。この虫が庚申(かのえさる)の晩に天に昇り、玉皇大帝にその人の悪口をいう。それで庚申の晩には三尸神に悪口をいわれないように、行ないを慎むというのである。悪いことを見ざる、聞かざる、言わざる、ということで三匹の猿を刻んだ庚申塔が路傍に立てられ、道行く人に反省を促すのである。また庚申塚も築いて信仰する。現代にまで続いているものとして、黒羽高等学校社会部の研究報告書の中に、講に関するものがある。黒羽町大輪石堀の例である。次にその一部を紹介する。
 
「年に六回、一、三、五、七、九、十一月の、庚申(かのえさる)の日に行なう。戦争中も行なわれていた。
 宿(やど)を変更するのは、不幸があった時などで、次の宿の人にやってもらう。朝、米五合を宿へ持っていって、女の人が料理する。夕方、前の宿の人がおかけじ(掛軸)を持って来て、男の人が揃ったら、おかけじを掛け、ろうそくに火をつけて、豊作でありますようにと拝む。お神酒は上げない。昔は、この時に、組(講中)の相談事をしたが、今は、おもに雑談をするくらいである」。(講員八名)」

 
 庚申塔の猿は、庚申の申(さる)にちなむ。これは密教と習合したものであるという。なお石堀の例は、我が国の農業神の信仰と結びついておるので、豊作を祈願しているのである。

庚申塚(奥沢)

 路傍には庚申塔のほかに十九夜塔、二十三夜塔その他の塔碑類が、なかば草に埋れて立っている。建立年号を見ると、元禄以降のものが多い、十九夜講、二十三夜講など現代に引き継がれているのもある。
 (2)の形の講として、中世には浄土宗の念仏講、浄土真宗の報恩講、日蓮宗の題目講が組織されていた。社寺や教団に属する宗教家(僧侶・神官・山伏等)たちが、各地を旅してその霊験を説き、種々の講を組織した。伊勢講、稲荷講、富士講、秋葉講、御岳講等数が多い。旅の宗教家は講員に護符を配ったり、また講員の参詣講の旅の世話もした。
 山伏は山の神の信仰を布教し、郷村に山の神の講、たとえば熊野三山講、出羽三山講などが組織された。路傍には講員の参詣記念塔が立っている。遠隔地の社寺への参詣は、代参講という形で行なわれた。出羽三山講などもそれに当るが、黒羽高校社会部調査の、古峯が原講を紹介する。
 ○古峯が原講
 
「大輪全体で行なわれていた。年に一回、三月十五日頃お参りにいく。お参りにいくのは当番制で、上大輪から二人、下大輪から二人の計四人で、鹿沼の古峯が原神社へお参りにいった。そして、お札をもらってきて各家に配った。配られたお札は畑にさした。各家からお金を集めて、貯金して、そのお金で古峯が原神社へいった。しかし、戦後は行かなくなってしまった。」
 
 右は大輪地区の例であるが、こうした代参講は「古峯が原講」に限らず、各地に多く行なわれていた。中世から近世、現代と引き継がれて今に残っている講も多い。
 (3)その他の講では、特定の仏を崇敬し信仰する観音講、地蔵講、大師講、大日講、天神講等がある。黒羽高校社会部研究報告第六集には、大日講(大輪と鮎ヶ瀬の人たちが、旧三月八日に玄寿院に集会を催した。現在は廃止)、天神講(上大輪で行なわれていた。旧三月二十三日、玄寿院に集会を催した。現在は廃止)の調査報告が載っている。他の地区においても、程度の差はあれ、種々の講が行なわれていたのである。
 講の特徴は一仲間だけのルールで運営される、二横の相互連絡がない、三同名の講でも著しい地域差がある。といわれている。(『現代教養百科事典』6宗教)
 ○念仏講
 念仏講は、全国に広く行なわれて、仏教系の講を代表しているという。念仏とは一般には、仏の姿を念じたり、その功徳を念じたり、また仏の名を口に唱えることだとされている。念仏は遠く平安時代の空也(空也念仏)から平安末期の良忍(融通念仏)へ、そして中世の一遍(踊り念仏)へと展開し、遊行上人などの活動もあって、民間へと浸透していった。鎌倉仏教では法然(浄土宗の専修念仏)、親鸞(浄土真宗)など宗教教団が念仏を民間に普及させていった。
 近世にいたって、念仏講が部落講として広く郷村に流布していった理由は、次のようであるという。一つは村の葬送儀礼の一端を受け持ったこと、二つには農耕儀礼と結びつき、民俗芸能の一面を持ったこと。(岩波『日本歴史』9「近世社会と仏教」)
 講の特色の一つは同名の講でも、地域差が著しいと、前述したが、念仏講も葬送儀礼に関しても、また農耕儀礼についても、その方法・内容には著しい差違があるようである。
 近世より現代に引き続き行なわれているものとして、再三の実例紹介ではあるが、次にまた黒羽高校社会部の調査研究を紹介しよう。
 
「下大輪で行なわれている。(中略)昔は年に六回行なわれていたが、今は年二回、春の二月二十四日と、秋の十月二十四日に行なわれている。宿は二軒宿で、片方の人が米を集める。宿を変更するのは不幸などがあった時で、次の二軒宿の家でやってもらう。前の日に、宿にあたっている片方の家の人が、米五合を集めにくる。この場合、出ても出なくても(出席・欠席)米を出すことになっている。
 昔は必ず戸主が参加することになっていて、代理人を出すことができなかった。しかし、今ではその時に部落の決め事をするので、それがわかる人なら誰でもいいことになった。集ったら、車座にすわって百万遍念仏を唱え、太鼓・鉦をたたいてお念仏をして、ご馳走を食べる。強飯式があったけれども、無益なので三十年前に廃止された。昔は講金(頼母子講(たのもしこう)や無尽講(むじんこう)の類か)を集めて貯金しておいたが、お金の値うちがかわってきたり、使いはたしたりしてしまって、やっていくのが困難になった」

 と、以上のように報告している。
 〔道祖神〕
 松尾芭蕉は『おくのほそ道』の冒頭の文に、
「………そぞろ神のものにつきて心を狂はせ、道祖神の招きにあひて取るもの手につかず」
と述べている道祖神(どうそじん)とは、どういう神なのであろうか。

道祖神の碑

 「村境、峠などの路傍にあって外来の疫病や悪霊を防ぐ神。また『あの世』の入口にある神。のちには縁結びの神、旅行安全の神、子どもと親しい神とされる。岐神(くなどのかみ)。道陸神(どうろくじん)。たむけの神。さえの神。道祖。」(日本国語大辞典)
 路傍には男女二体の像や、石の男根を金精神として建てられているのもある。鎖国神社の境内には、小泉斐が画いたのを彫りつけた道祖神の石碑があったが、二、三年前に誰かに持ち去られてしまった。今はむなしく台石のみが草に埋もれている。以前に拓本をとっておいたので、次にそれを掲げる。(文字のみ)
 (表) 道在明此神明徳    小泉斐画
            道祖神
    親民在止於至善     わらじの絵
       天保八年丁酉九月日
 
 (裏) 編笠と杖の絵
                斐檀