この社は、黒羽藩主大関信濃守増栄代、現在地の後郷高尾森(中野内)に、大三輪山(大輪地内高館)の湯泉平から移された。
『大宮』の霊域は、八溝嶺をみはるかす牧歌的な里で、幾歳月に耐えてきた老杉のある深い杜(もり)である。万葉の『真弓の岡(まゆみのおか)』になぞらって『檀山』とも称えた美しい山である。
『太々神楽』は、『温泉神社』の例祭、四月十五日に、神輿(みこし)の渡御後、神事の進行のなかで、『流鏑馬(やぶさめ)』・『獅子舞』の饗宴(きょうえん)とともに繰り広げられる。
神楽は、間口五・四メートルある豪華な舞台で演ぜられる。この常設の神楽殿は昭和四十二年(一九六七)に改修されたものである。
往時は、例祭日ばかりでなく、後の祭りにも上演したという。興行日には、親戚縁者と村中の老若男女、信者とが集い、舞台のまわりに人の山を築いたという。
神楽は『岩戸神楽(いわとかぐら)』とか『太々(だいだい)神楽』(代々)といわれるもので、演目数は十二座のものと、三十六座のものが多い。中野内『温泉神社』(大宮)は、後者である。
(注)地元では、『太々神楽』のことを単に『太々』と呼びならわしている。
『太々神楽』は、最近まで左記の十四種が伝承されているが、そのうち現在上演されているのは次の十二種(○印)である。
〓大宮の太々神楽
一、 ○国堅の舞(くにさだめのまい)
二、 ○五行(ごぎょう)の舞
三、 ○三筒翁(みつおう)の舞
四、 ○天狐(てんこ)の舞
五、 ○千箭(ちのり)の舞
六、 ○長刀(なぎなた)の舞
七、 ○岩戸開(いわとひらき)の舞
八、 ○湯加持(いさぐり)
九、 ○大蛇(だいじゃ)の舞
十、 ○山の神(やまのかみ)の舞
十一、○海宮(かいぐう)の舞
十二、○花神(かじん)の舞
十三、 弓神楽
十四、 種蒔(たねまき)
二、 ○五行(ごぎょう)の舞
三、 ○三筒翁(みつおう)の舞
四、 ○天狐(てんこ)の舞
五、 ○千箭(ちのり)の舞
六、 ○長刀(なぎなた)の舞
七、 ○岩戸開(いわとひらき)の舞
八、 ○湯加持(いさぐり)
九、 ○大蛇(だいじゃ)の舞
十、 ○山の神(やまのかみ)の舞
十一、○海宮(かいぐう)の舞
十二、○花神(かじん)の舞
十三、 弓神楽
十四、 種蒔(たねまき)
『五行の舞』は木の神(東=緑の幣)、火の神(南=赤の幣)、土の神(中央=黄の幣)、金の神(西=白の幣)、水の神(北=黒の幣)の五神の舞である。舞の方式は五色の幣をそれ/゛\持った舞人が、鈴をならし四方に舞うのである。この神楽には、なぎ、なみの舞中にとなえことばがある。
『千箭の舞』は、イザナギがヨミの国で醜女の配下である軍兵に追われたとき、平坂で桃の実三つを投げつけて逃げ去った神話にちなんだもので、荒神どもが夜な夜な出現して良民を悩まし財宝を強奪する舞である。
俗に『鬼退治』と呼ばれている。『オニ』と『ミチガエシノミコト』が登場し、四方に舞う方式である。「トヒャラ トヒャラ」と笛のフキダシがみられる。
なおこの舞は、『往還住命の舞』(庶民の悲運の叫びが天に通じ、鬼神退治の神が天下り、鬼神を退治する話)へと進行していくのが常道である。
楽器の囃子方は、大太鼓一、つけ太鼓一、笛二~四人であった。笛・太鼓はすべて口伝による教授で伝承されてきた。聞くところによると、舞・笛・太鼓とたくみな組み合わせによりおぼえやすく工夫されていたという。
温泉神社には、楽器・仮面及び冠りもの、舞手の服装などが保存されている。
『太々神楽』が『温泉神社』(大宮)の例大祭に何時(いつ)の頃から舞われていたか明らかでない。『創垂可継(そうすいかけい)』(三社礼式)の『那須郡高尾郷桜田村温泉神社年中行事』(文化十四年〈一八一七〉)の項の『旧三月十九日御祭礼当日之式』のなかに、「今暁寅刻(午前四時)湯取祈祷の行事あり……その後社人及産子大小男女畑田耕耘の形容をなし戯れ舞をなす。鋤鍬鎌等の農具をとり老婦等田植の歌、麦つき、臼引き歌をうたうなり。年久しく絶えて伝のみ。今はこの舞これなく云々」とある。これは『御田植祭り』の類であるが、『太々神楽』の発祥もこの舞が舞われた頃か、その後のことであると考えられる。
『温泉神社の神楽』は中野内保存会(代表菊池真男)の方々によってその伝統を継承している。