1 黒羽藩の富国強兵策

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黒羽藩の富国強兵策は、増裕が文久元年(一八六一)十月九日養嗣子として家督を継ぎ、翌二年十一月に「家老并諸役人」に親書を下した中に、基本方針として示してある。すなわち、士民撫育、府庫充実、兵備更張の三つである。
 増裕は、幕府の要職に在って、内外の情勢をよく知っていたのであろうか「当今 皇国之形勢、百患四方ニ迫る(略)今天下之形勢如此(略)尊王と社稷を保存する一端、亦外ニ出へからす。云々」と述べている。
 ここで重要なことは、府庫充実は、士民撫育のためなのか、兵備更張のためなのか、兵備更張は士民撫育のためなのかである。増裕の藩政改革は、富国強兵のみで尊王と社稷を保存することができるという立場をとっているのだろうか。尊王とは、王政復古、大政奉還をすすんで実施する心底だったのだろうか。社稷とは、幕府・自藩の生きる道のみを指しているのだろうか。増裕に影響を与えた増業の皇国観は、神道によった尊厳再拝に徹していた。財政建直しにしても、士民撫育から出ているとはいえない面があった。「御物好きな藩主増業公」といい、学術のために浪費したという藩士達の見解は無知であったのだろうか。今迄の『創垂可継』や諸編著書等のみの紹介による賛辞から一歩脱却し、増業が藩政改革に果した事柄を見直して真の藩治であったのかどうかを再検討すべきであろう。こうした点をふまえて増裕をみるとき、当時の知識人として幕政にも参与し、黒羽藩改革の三根本方針に添った施策を強力に推し進めてきたのが、彼の中心思想である
 「尊王と社稷の保存」とはいかなることなのか、現在までの文書、記録の紹介だけでなく、増裕その人に視点を当て解明する必要がある。勤王藩・賞典高一万五千石とたたえられている陰に、多くの重臣をあたかも愚なる者と見下し、人材登用と称する施策がやがて側近政治になってしまい、自から墓穴をほってしまう裏面をもっとほり下げることを郷土史家はすべきであろう。
 増裕は、富国強兵のうち兵備更張は「当今の急務也、今其急務とハ講兵を欲すといへども、器機不備、教師なし、将如何ともすべからず」と述べている。銃砲を整備し、兵制を整え、兵士を訓練し、その指揮者を養成することに全力をあげる。さし当って「大砲四門、小銃六十挺、是大海之一滴、九牛之一毛ニ比すといへども、尚無ニハ勝れり、国より能せざるニあらす、是為さる也云々」の充実をはかる。
 増裕は、文久三年(一八六三)五月に入邑し、六月には幕府の軍制改革にならって砲術は洋式と定め、江川塾門人柴内宏蔵を新地百石で教師に召抱え、諸士中五名を選抜して教示方とし、また、四名を砲術世話方とした。家中の役なきもの残らず、次三男や厄介に至る帯刀者以上は願によって家格を問わず稽古をさせた。騎兵隊の新設・喇叺の採用、小銃の製造、大砲の鋳造、砲車台の製造、火薬庫、武器庫の新築、銃劔及軍刀の製造等を行った。更に、西洋式の諸兵器具を購入し、慶応三年までの五年間に「大小砲十二門、小銃六百挺余、及軍需諸品ヲ整頓シ得タリ」という充実整備である。特に「財豊ナラザリシモ」と前書きしている。前章の「文久から慶応の改革」「慶応の百姓騒動」を参照して、増裕の施政の急進を理解してほしい。
 元治元年(一八六四)三月には領中の猟師を全て書上げ、苗字帯刀を許し、郷筒組を編成、慶応二年(一八六六)三月には村上一学を砲術引建農兵取建係に任命した。よって御扶持下され、苗字帯刀木戸柱御免で、実に多数の応募があり、農兵隊を編成した。このことは、前章に述べたので省略する。
 諸隊の指揮の任に当る士官の養成は江戸の諸塾への入塾によった。砲術は江川太郎左衛門へ安藤小太郎、興野鉄太郎、軍学は山脇次右衛門塾に村上一学、滝田登、益子四郎を入塾させ、城代浄法寺高譜は通学させた。
 文久三年(一八六三)六月、文武将励の自筆訓示の趣旨を記す。「武術者当今之急務、文学者日用之実事ニ而文道を不知して、武道終ニ不得勝利之旨も有之、人々可相励事、此度三田称平江学頭被仰付候間、諸士之忰二三男ニ至迄、幼年より学校江罷出、素読出精し、講釈承候様可致事」このあと六ヶ条の規則がつくが省略する。
 元治元年(一八六四)六月、砲術士官心得八則を自筆して与えている。国家のため、身命を拠(す)て忠勤を励み、実地応用の器に相当するよう精々修行せよ。頭役は全軍の強弱存亡にもかゝわるので相互に和して当れ。大砲并諸器械を我が手足と心得て大切に取扱え。学術図書が必要な者は、身分の高下を問わず貸与する。己れより上位の階級にある者に不礼の振舞をしてはならない。虚飾の衣服は相成らない。勤向きは役々ともわきまえて勉励せよ。「右心得方、急度相守、其徴候有之ニおゐてハ、人々其器ニ応し、夫々非常之抜擢賞譽、急度可有之者也」との次第である。
 慶応三年(一八六二)五月に藩政改革を行い、軍制を政治向から離し、全軍惣督を筆頭に各諸役者を置き編成を完了した。
 「今般兵隊役々、別紙之通御定被仰出候ニ付而者、以来業前宜、御用立候者二者、如何様家筋ニ而も、其身一代者、当人業前丈ニ、御操場相成間、銘々心得罷在可申旨被仰出之
  慶応三年卯五月
 
   (別紙)
    一等
   一全軍惣督      席諸臣之上
              俸 三百石
   一物頭筆頭      中老席
              俸 弐百石
   一物頭        席大目付之上
              俸
   一物頭見習      席俸 追而御取極之事
   一指揮役       席郷奉行
              俸弐人口金三両
    二等
   一指揮役並      席郷奉行之次
              俸壱人口金弐両
    三等
   一指揮役見習     席指揮並次
      以上役士分
兵隊抱候役々、以来教援其外共ニ、筒袖羽織細袴相用可申事。」

 
 これによると、家格にかゝわらず、一代限り、役職とその俸録を与えるというものである。(以上増裕公略記外諸文書記録)
『黒羽藩史資料』中の、増裕の手簡によると、物頭は重き役で預りの組子の主人ともなるものである。しかし、物頭の役目さえ知らない。よって西洋砲術の修業を申付たが、至極勉励した者を物頭に選んで命じることにした。門地もよろしいし、格別勉強業前大に進んだとして、益子四郎、安藤小太郎を始め、程島誠七郎、服部九十九、渡辺福之進、興野小太郎、滝田登等を物頭役に任じた。次いで、砲術出精者を一等並、二等並、三等、三等並に進めた。
 かくして、増裕の富国強兵策中、兵備更張は整えられた。さきにも記したが、五年間に砲・銃・軍需諸品の整備と米・永の増加を家中、領民の抵抗を排しつゝ果した。これらが、全く戊辰の戦いに費(つい)えるのである。そして明治に入ると、領中困窮に苦るしみ、藩士の中には、生計の道が立たないまゝ、黒羽から散って行くのである。