2 大政奉還・王政復古と黒羽藩

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幕末の皇権回復運動は複雑に展開していた。いかに皇権を回復するかに二つの潮流があった。一つは、平和的手段で徳川慶喜に政権を返上させ、慶喜を主宰とする公儀政体を組織し国政に当らせる。一つは、武力によって徳川幕府に終止符を打ち、天皇親政の政体にしようとする。いわゆる、平和論者と主戦論者の抗争である。この二論は西国雄藩の中でも薩・長・土の各藩において激しく、それぞれ藩主や重役を説き、急進的公卿に接近し謀議して進められて行った。平和論者が着々効を奏していたが、主戦論者の猛運動が優位に立ち、遂に倒幕の宣旨降下の密奏を天皇に乞うた。明治天皇は、「討幕の密勅」を極秘に薩・長二藩に下された。時に、慶応三年(一八六七)十月十四日である。あたかも同十四日、徳川慶喜は政権奉還の奏文を上り、翌十九日允許の御沙汰があった。
 同年十二月八日から開かれた小御所会議における激論の末、翌九日「王政復古ノ大詔」が発せられた。しかし、形式的には王政は復古したが、施政の方針もなく、幕府の政治をそのまゝ受けついで、諸侯の公議にたよるありさまであった。そこで、岩倉を中心とする西郷・大久保等は、新政府組織樹立のため討幕が必要であるとの協議の結果、討幕の大号令発布の密旨を中山・正親町の二卿に請わせた。かくて、慶応三年十二月九日、「王政復古ノ大号令」が発布され、翌十日徳川慶喜の征夷大将軍の職を解いた。
 当時、黒羽藩主大関増裕は若年寄格兼海軍奉行であったが、慶応三年一月十五日若年寄兼海軍奉行に進んで幕府の参政であった。文久元年十月九日大関家を嗣いで以来、自から藩政の全権を行使して、兵制の革新・教育の振興、財政整理等を推し進め、そのために人材の登用を積極的に行った。
 しかし、増裕は、「尊王と社稷を保存する一端、亦外に出へからず」(増裕公略記・文久二年十一月達書)と藩政改革の大義名分を持っていたが、実際については判然としない。今、『黒羽藩史資料』によって、この時期の足跡を追ってみる。
 幕末の急を告げる時の慶応三年二月樺太開拓及捕鮭事業の為、徒目付土屋鼎之助仝長坂忠蔵ヲ派遣している。一方、軍制関係の諸役に、かつて江戸で兵法・西洋砲術等の修学をした士を役職に任じ、兵士の訓練を行っている。また、騎兵を新設している。慶応二年の領中損耗により勤柄も難儀として幕府より金弐千両を借入れ御手許に入れている。四月以降になると家老始め諸役者の上京がしげく行われている。家老大関弾右衛門は四月。八月・九月に、同村上一学は六月・十一月と急出府して増裕と打合せを行っている。これらは藩政の要務や財政上のお尋や報告である。
 慶応三年九月十五日城代浄法寺弥一郎は御用召の上、全軍総裁を仰付られている。
      覚
一、今般全軍惣裁を任候上者兵務上ニ付而之賞罰向并其外共惣而委任候事

一、兵務ニ関係無之分者本務之方繁多ニ付関係ニ不及候事

    卯九月
増裕は、着々と軍備を整え、一端有事の際出動出来るよう組織し、士分隊・農兵隊の訓練を行わしめている。
 九月二十日、「頃日幕政頗ル多事君公時ニ或ハ夜半帰邸スルアリ又引続キ柳営ニ宿城スル等ノ事アリ人心頗恟々云々、殿様昨日御登城之処其侭退出無之今暁七ツ時一時御帰舘四ツ時更ニ御登城相成候事」という多忙ぶりで、同二十三日「君公病気ニ依リ登城ナシ」理由は昨夜よりの頭痛(持病であった?)と腹痛である。
 十月二十二日、増裕は在所家老に親書を与え、急速に兵隊を上京させよと命じた。また、軍費として、家中并町在富豪へ用金調進を命じ、渡辺福之進以下兵隊を引率し着府している。更に十月二十八日に兵隊を急召したので、高橋亘理以下士分隊三十人が出府した。その書簡には、「追々不容易形勢相成何時何地へ出張可致も難討候間兼て申付置候通兵隊大急為差登可申候」と御府内暴動に備えるためとしている。
 こうした重き事態に、「領中分限に応し百石拾両之当を以て用金申付候、是徳川氏之御安危当家之浮沈此時に候間累代之御恩沢を蒙り家之為を存候者は家中○○にも不拘多少献金候様取計可申付候」と苛酷の沙汰も出しており、大吟味役五月女三左衛門は見込書を作成し上京したので増裕は一見している。
 この時までの増裕の心中は果して「尊王と社稷を保存する」であったろうか、右の書簡からは読み取れない。いわゆる平和論的立場をとりつゝ、藩の存立を考慮していたとも読みとれる。
 十一月八日、大政奉還の達しが黒羽藩に届けられた。この日を界にして、増裕の動きは朝廷へ向けられる。すなわち、十一月十六日、近習三田深造・祐筆佐藤均を窃に京師に巡遣した。それも、公の実家遠州横須賀表へ御内用向としてである。「蓋シ密使派遣ノ真意ハ?」と書いているところから増裕は独断で行ったもので、家老側用人も存知していなかったとみてよい。
 十一月三十日、幕府から京都に出張の命が増裕にあった。「殿様今般御用被為在候ニ付御上京可被遊旨御所より被仰出にて候旨江戸より申来候。殿様御在所御元締御見分之為め近々当表より御下り被遊候旨江戸表より申来り候。右両条追々御沙汰可有之候得共為心御内内相達に候」と在所へ達している。
 十一月二十五日、兼て幕府に願い出た藩政整理の為の賜暇を二十日を限って許された。家老村上一学は急出府、帰邑のための諸般の打合せをし、十二月一日帰藩した。
 十二月三日、増裕は江戸を発して黒羽に向かい、同六日無事に城に入った。越えて九日、近習数名と微行して金丸八幡宮の後方の山林に銃猟に出かけ暴に卒している。誤殺・自殺・他殺等の風聞があったが、個々人がそれぞれの立場で推測しての言が多く真相は不明である。『黒羽藩史資料』に事実を述べ、加えて一、二の談話が載せられている。そして「愚曰、諸説其の何れが是なるかを知らず、姑く並べ存して以て他日の改定を待つ」と断定を避けている。
 増裕は、文久二年(一八六七)十一月「老臣并諸役人」への達書で「入邑後、第三日之後より、百事全権たるべき事」と強い決意で藩政改革に当り、しかも独裁的手段と側近政治によって藩意と民意に反して進めて来たが、大政奉還によって転換を余儀なくされた。慶応三年(一八六七)十月二十八日、増裕は浄法寺弥一郎に要用として自筆書状を出しているが「今度之義者実ニ不容易義 上御家之御浮沈隨而当家之存亡も此時と存候云々」と大政奉還允許を受とめていることからも痛打が知れよう。前記の十月二十二日自筆の家老えの親書と同じ趣意である。こうした経過をたどって密使派遣ともなった。そして増裕の考えが次第に家中に浸透し、藩論は新政への恭順へ傾いて行くのである。
 資料に曰く「国法諸侯ノ卒シテ嗣ナキ者「国除セラル云々」とある。よって病と称して中外に告げた。諸役者は城中に会して事変に対する善後策及須要政務を議した。家老村上一学・大目付小山守之助は急出府し、江戸藩邸の諸役者と内評議し、十月二十二日幕府に増裕の賜暇を願って許可せられた。十二月二十五日、御養子を選定し、御用掛に村上一学外五人を命じた。慶応四年一月二十四日には増裕の海軍奉行を免ぜられている。その間御養子選定が進み、同二十八日養子縁組の許可があり、急養子として松平頼縄甥泰次郎を迎えた。泰次郎は増勤と名乗り、同二月一日初謁見した。同二月八日増裕の喪を発し、翌九日増勤を自今殿様と称す旨を家中に達した。
 増裕が施いた職制も改められ五月女・浄法寺の家老就任、合議体制が施かれた。諸士の役替も旧格に復した。こうした中で、御親征が発せられ黒羽藩の動揺が始まる。