しかし、増裕の死は、藩の存亡を、大政奉還・王政復古の大号令という展開の中で賭け、それを正論として次第に恭順に統一されて行ったと思われる。その中心となったのが、江戸にて西洋の学術を修業した士達と当時進歩的な気風を持った士達である。
『黒羽藩資料』によると、慶応三年十二月二十八日、三田称平は大塚仁左衛門が継嗣選定や須要政務のため出府するので、村上一学に書を差出した。
「一国家之大事は肉食之者是を謀り、卑職之あつかる所にあらすといへども一寸之虫に五分之魂あり聊力たり共心付候事を言はさるは忠にあらす但平生之事ハ官を越へて申すへきにあらす此度之儀は御家之御安危と奉存候間一日も黙止するに忍びず改て三ヶ条に約し献言仕候御熟考可被下候
第一御養君之儀幕府之例に御泥み無之急速京師へ御継目御願被成候儀当今之第一義と奉存候云々
第二先公いまだ御在役中にて御不都合之義可被為在候間急速御役御免之御願被差出其侭柳席之格を以京都へ御名代被差出候儀可然奉存候云々
第三(略)仮ニ御家来分にても御評議を以て御由緒之者暫時之間摂位名目迄に京都へ御継目被為済追て御養君御見当次第退き之積御誓約御立可被成候
京殿へ才気有之者一人御差出置無之候ては万事御不都合之義と兼々心得居候云々」
これは奇策妙計ではない。この三条は「理を以て諭・勢を以て威・利を以て誘」の三術を以て施せば家之幸福が得られる。『地山堂雑記」(三田文書)に「一日後レ被成候ハゝ一日ノ御損ニ御座候断然御裁聞奉云々」と述べている。この書には幕府より京都への接近が打出されている。「幕府之御役筋へ御内聞御手入等之事は無程御無益之事ニ相成可申候」とまで言い切って幕府から離れる。また御目代の派遣によって京都への接近を計る。
これは、急養子選定のための考えを述べたものであるが、関東の騒動の勃発によって危機を感じた結果からの表明であろう。また、これは藩の態度を勤王に決定する最初の動きでもあり、増裕の京師への密使との関係は全く不明であるが、今後の黒羽藩の動揺につながる重要な姿勢である。
徳川慶喜は江戸開城を決意し、諸臣に軽挙妄動を戒め慶応四年二月十二日輪王寺宮に朝廷に謝罪の斡旋を願い出、上野の大慈院に入り恭順の意を表した。同時に謝罪哀願書を送った。しかし、同四年一月の鳥羽伏見の戦に端を発した情勢は幕府の後退へと進み、関東も騒然となり、旧幕兵は所々に出没して不穏な政情であった。岩倉具視は親征条目を草し、二月一日廟議に付し、翌三日親征の大号令が発せられた。
東征大総督に総裁有栖川宮熾仁親王が任じられ、「畿内七道大小藩各軍旅用意可有之候(略)御沙汰次第奉名馳集るへく候諸軍戮力一同勉励可尽忠戦旨被出候事」の号令である。二月十五日大総督宮は京都を発せられた。これによって、同四年二月二十八日「御親征内治外交ノ詔」が諸侯に下された。「徳川慶喜不軌を謀り、天下解体、遂に騒擾ニ及ヒ、万民塗炭ノ苦ニ陥ラントス。故ニ朕己ムヲ得ス、断然親征ノ議ヲ決セリ。(省略)汝列藩、朕カ不逮ヲ佐ケ、同心協力各其分ヲ尽シ、奮テ国家ノ為ニ努力セヨ。」と黒羽藩にも賜っている。
黒羽藩では、昨三年十二月二十八日以降恭順的な立場にあったが、「親征」の趣意を体して、大総督宮に御下向御機嫌伺を申し述べると共に、願書進達のため、御目代を派遣した。すなわち、「御親征内治外交ノ詔」が下された翌日の二十九日、御目代として家老五月女三左衛門を京都に派遣した。副使小山勘解由、江戸より田代稲右門が之に隨った。
同資料には、三左衛門から、二月二十四日浄法寺頼母・村上一学への書簡で、「最早徳川家へ聊御懸念有御座間敷御評仕候云々」と決意の程を述べている。三月十一日、三左衛門は上京途中、駿河府中に於て「奥州出兵願書並びに在家兵隊人数調書」を有栖川宮熾仁親王東征大総督府宮御本営に奉呈、即日相応の人数を差出し奥羽鎮撫総督ノ指揮を受くべき旨を命ぜられた。
大総督府進達願(省略)
この時には、増裕は卒去していたが、嗣子が定まっていないので増裕の名で進達している。
十一日夕、参謀正親町中将より御達書を賜った。
大関肥後守へ
会津為追討出兵被 仰付同国相応人数差出シ奥羽鎮撫使総督へ伺出指揮従へ可励忠勤候旨 大総督宮被御出候事
慶応四年三月十一日 大総督府参謀
右御達書の御請書を勘解由を以て差出し十二日出立し帰藩した。
御請書
今般会津 御追討ニ付出兵可仕旨被、仰渡尚ホ相応人数差出奥羽御鎮撫御総督へ伺出可励忠勤御沙汰之趣難有承知奉畏候此段肥後守へ可申聞候
右御請為可申上如斯御座候以上
慶応四年三月十一日 大関肥後守家来
五月女三左衛門印
御参謀方
御役所
(黒羽藩戊辰戦史資料)
三月十六日に、京都御役所より、増裕の跡式願の通り、松平泰次郎に聞召されたと達せられた。同二十四日増勤と改名した。
一方黒羽に於ては、三月十四日朝七ツ時水戸藩の脱徒市川三左衛門。佐藤図書等八百人余が昨夜大子村止宿の後出立し、会津へ向うため須賀川村を通行するとの報によって総登城が命じられた。大沼渉、興野新太郎応接方を命ぜられ出張った。小銃隊二小隊、砲六門を揃へて待機していたが、奥州道へ不残操込んだのを見届けて九ツ時解散した。
三月二十六日仙台藩に下向した奥羽鎮撫使九条・沢・醍醐殿に拝謁のため、佐藤官大夫・松本調平の正副両使が命じられた。四月六日参着し、那須奉書を献上し取次を頼んだ。翌七日に御達書を下された。趣旨は、会津と近接なので激徒共いつ〓暴するかわからないから境内を厳重に守るようにとのことである。
四月七日、下之庄近村他領村々百姓が蜂起の急報が大沼渉よりあったので、八日家老益子右近は、説得方高梨伴右エ門、小隊長服部九十九外二十七名の隊士を引率して出張った。
三月に関東に入った東山道総督の先峰は宇都宮城に在ったので、四月十五日村上一学、大塚仁左衛門が伺候した。出兵に及ばず、領分を厳重に守るよう差図があったので、十七日帰国した。
四月十六日、下総結城在陣の官軍の危機が久保田宿陣より達せられたので、渉並びに九十九一小隊を大根田町に出陣させた。このとき、結城在陣へ差遣した鈴木庄作、新江寿三郎・長棹速水は幕軍に捕えられ糟田村万満寺門前で殺害された。十八日に益子に帰陣した。
四月十七日、宇都宮城危急の知らせがあったので、十九日家老渡辺記右衛門が歩兵一小隊、砲二門を引率して出陳したが、氏家で宇都宮城落城の飛報に接し、喜連川に宿陣して翌二十日帰陣した。
四月二十日、興野新太郎を水戸藩に遣わし、一旦緩急の時は応援を乞う為であり、加勢は断わられ、退城お頼みは承諾の挨拶を受けて二十五日帰藩した。
四月二十一日、滝田典膳・佐藤官太夫・久野重兵衛を仙台へ遣わし、非常の節万端お頼みし、承諾の挨拶を受けて二十八日帰藩した。
これらは、四月十八日諸士総登城し評議の結果「朝命御奉載御勤者勿論之義」と官軍への立場を明らかにしつゝ、「然共会津へ間使御発し有之候仕度」と手を打ち、「仙台へ御頼御使差出動静御熟案御手抜無之候様」との決議にもとづいて対処したことである。
黒羽藩は、会津と幕府脱走兵の騒乱の間にあって、両面作戦で臨んだ。これは将に増裕の立場と同じであって、この方が一層深刻である。責任ある重臣の苦衷が察せられる。
二十一日、暁六時前、家老始め重立った諸役士が評議をした。「賊勢追々強大に相成小藩にはとても防戦無覚束人数を無益ニ失ひ城地を被奪取候ても追て勤王可仕手段も無之候去成防戦之心得にて罷在候得共」と戦意を表わし、若し開城・降参になった時は一旦虎口を遁れて「官軍御出張に相成候はゝ必内応成共裏切成共臨機之策略を以て勤王の心得に御座候此段兼て申上置候詐謀者戦争之習に御座候」と進退の意を述べている。
当時、黒羽藩では、一旦開城し機をとらえて攻勢に出る策を取る者と守城防戦し機をとらえて攻勢に出る策を取る者とがあった。藩の存亡を双肩に荷う重臣や重役諸士は消極的立場をとった。仙台藩が会津を援助して佐幕の色があることを知ると、十八名の積極論の士は論議決することが出来なかった。しかし、「守城攻戦ニ決スルヲ以テ再議ハ俟タザルナリ若シ御立退アレバ変ニ応ジ追従スルコトアルベシ」との言を得て、村上一学は、「かゝる勇士の有こそ頼しけれ云々」と守城攻戦に決した。先きに、重臣の命により御新馬場備付の大砲を埋めたのが堀りかえされた。
四月二十九日、東山道総督府へ安藤三郎左衛門を遣わし、奥州境守護のため出京の猶予を願い出て許された。
閏四月、会津の大軍が発したことを宇都宮総督府に報じ、白川口に斥候を出していた。
こうして、黒羽藩の動揺は勤王に統一されたが、次のような処置も取られていた。黒羽藩兵の出兵は、「変ニ応ジ追従」との立場を取りつゝも、情勢に追い廻されながら戦意を高揚し、歴戦を重ねて行く。小藩として止むを得ない手段であろうか。次の事柄も、一書には探索のためと書いてあるが、藩命は文面のとおり立退きの場合の御頼みである。
同八日 三田称平は仙台へ、御立退御頼御承知の御礼に遣わされた。