2 黒羽藩の出兵と転戦

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黒羽藩の兵備更張による郷筒組の制は元治元年(一八六四)三月に施かれ、御堀廻り、東郷、西郷の三組である。時あたかも、水戸藩の内部対立抗争が激化し、世に言う藤田東湖派(東湖死後、子の小四郎)の天狗党(正党・激党)と結城寅寿派の諸生党(奸党)、すなわち、改革派と保守派の対立である。天狗党側には、武田耕雲斎・戸田忠敬・会沢正志斎等がおり、諸正党側には、市川三左衛門・佐藤図書・朝比奈弥太郎がいた。
 文久から元治にかけての抗争は、遂に天狗党の筑波山の挙兵となり、後宇都宮・日光・大平山へと移動し、後各地に戦ったが利あらず、元治元年十月二十六日軍議の結果、西上を決した。すなわち、朝廷に衷情を歎訴するためである。
 元治元年十一月一日、賊徒千人余武田耕雲斎・山国喜八郎大将で、月居峠を経て黒羽領に入るの飛報があったので、揚玉・早鐘・早半鐘を突き登城させた。明神峠で郷筒組が鉄砲を打掛けたので、雲厳寺に下り、大多羅村から川上村止宿、二日は木佐美に出て両郷村に止宿した。夜に入って武田正生は趣意書を黒羽藩に差出した。『増裕公畧記』によると、その内容は、「一卜先兵を避け、折を以て、過チ無き由を申開き、醜夷掃除之素志相貫、国恩に報ひ候の外無他事候」という次第で「御領中通行いたし候処、折節日暮に相成候間、川原江休息致候間、此段御申入申候、以上」と、何事もない通過を申し入れている。
『波山始末』によると、藩では評議をし「曽て幕命あり城下に向て来られは則可也」と返答している。すなわち、「城下に来るなら幕命もあることなので反激する」との意味である。
 十一月三日、川上村を出立して伊王野、下芦野を経て越堀宿に泊り、弐百人余は鍋掛にも泊って、四日越堀を出立し高久村に泊り、五日高久村を出立して黒磯、石上を経て矢坂宿に向った。
 この間、黒羽藩では、士分・中小姓・徒士・足軽竹槍隊・弓組・郷筒猟師隊を城郭周辺に配置し、要所には、加農砲・ボートも配置して防衛陣を敷いた。また、須賀川・尻高田・久野又へも、士分が郷筒猟師隊を引率して布陣した。
 この事件は、増裕の郷筒組の実効を示したもので、慶応二年三月の農兵隊編成の端緒となり、二年後の戊辰の戦いに活躍する。
 北関東から奥羽にかけての戦の攻防は、黒羽藩の戦闘参加へと加速度を増して行く。
 慶応四年四月二十日、賊兵は白川城を陥れた。二十三日、大田原駅滞陣の本営より、賊徒打払いのための相談があるので早々来営せよとの書面が到来した。
 官軍は、二十五日の白川攻城により、芦野宿に敗退した。黒羽藩では、白米五拾駄、大小砲弾薬数千個、松明、草鞋数千個を送った。
 五月一日、官軍は白川城を攻略した。同十一日、白川口参謀より、藩兵を白川口へ至急出兵させるよう命令が達せられた。
 五月二十一日、藩主増勤より、白川口出兵を命ぜられた。
 隊長 五月女三左衛門
 軍監 大沼渉、安藤小太郎
  一番隊長 益子四郎  以下四十五名
        弾薬壱荷 人足四人 長持壱棹 人足六人
  二番隊長 渡辺福之進 以下三十七名
        弾薬壱荷 人足四人 長持壱棹 人足六人
  三番隊長 高橋亘理  以下 四十名
        弾薬壱荷 人足四人 長持壱棹 人足六人
  大砲隊  稲沢常之助 以下六名
        大砲引人足八人 弾荷五荷 人足弐拾弐人
  輜重方 瀬谷角之進  以下十四名
        人足弐拾人 附人弐人 弾薬拾四人
        〓火炊拾壱人 籠長持四人 両掛弐人
        小銃長持四人 人足割方弐人 予備人足拾五人
  病院   金技 三友
 同二十二日朝八時、白川口参謀より、至急旗宿に出軍の飛報があった。同日午後一時出発した。黒羽より六里の領内追分村に到着したが、地理不案内で、これより二里の旗宿に進軍出来たのは二十三日夜十時過であった。これより、各地を転戦する。
慶応四年戊辰黒羽藩戊辰戦記(抄)
月日記事
閏四・二十賊兵、白川城を陥れる。
同 二十一重臣、村上一学、二小隊を率て寒井村に出陣す。
官軍、板室村の賊を撃つ。
同 二十五官軍、白川の賊を撃って利あらず。
同 一官軍、一挙に白川城を復す。斬獲頗る多し。
同 十一白川口参謀より、黒羽藩へ、白川口より各戦地輸送の兵糧、弾薬等運送のため、常・野・総の人夫指揮者選定差出しの命があり、秋庭三郎兵衛を申し付ける。白川に本局を置き、棚倉・二本松・猪苗代・若松進軍運輸のことを司らしめる。
同 十一白川口参謀より、藩兵を至急白川口へ出兵の命あり。
同 二十一増勤、出兵隊長五月女三左衛門以下の白川口出兵を命す。
同、二十二朝八時、白川口参謀より至急旗宿に出陣の飛報来る。隊長五月女三左衛門、軍監大沼渉・安藤小太郎以下三小隊、大砲隊(一門)、午後一時黒羽城を出発し、六里にある追分村に至り、それより二里にある旗宿は地理不案内のため…
同、二十三午後十時過ぎ、全員問屋八右衛門方へ繰入れ止宿し、本陣を設け、金山口・白川口・追分口三方へ番兵を差出し見廻らせる。
同二十四黎明、追分方面で、頻りに砲声を聞く。黒煙天に漲る。二番三番の小隊を向わせる。旗宿前面より賊兵襲来。背後の山より不意に喇叺(らっぱ)を吹かせ、賊兵を敗走させる。中野村に入る。薩藩応援来るもこの由をきゝ帰る。白坂の駅に陣を移し、大垣藩の三小隊と共に守る。
同、二十六朝七時、賊兵白坂駅の東天王山林中より発砲、大垣藩と共に応戦、黒羽藩一番小隊奮戦して賊兵を敗走さす。時に正午。白坂駅は賊兵の放火で焼ける。賊兵は棚倉藩二小隊、会津藩二小隊、中村藩一小隊、臼砲二門外に純義隊一小隊なり。不意の戦争で、若し敵に智畧あれば危なかった。
二十二日以来の戦いを、五月二十七日に出兵隊長五月女三左衛門より太政官へ届出る。ついで、討取、生捕、分取を報告する。(本文略)
  一賊兵討取      十一人
 分捕
  一、臼砲 一門   一、刀 二本
  一、小銃 六挺   一、脇差 二本
  一、胴乱 二ツ   一、弾薬箱一背
     味方討死手負
  一討死     二番隊平士 小室新吉
  一深手、病院ニテ死 三番隊平士 後藤勇助
  一手負、病院ニテ死 一番隊属長 藪智次郎
  一手負       同平士   沢部善蔵
  一同        同 同   堀江玉之助
  一手負       二番隊平士 渡辺幸助
  一同        三番隊平士 祭勇三
 右之通御座候此段御届申上候以上
   辰六月
同 二十六会藩卒鈴木儀之助を捕え殺す。
同 二十七黒羽藩兵一小隊を増加し来りて白坂を守る。
同 二十八白川にて賊の間諜を捕え糾問する。今夜一時大軍で白川・白坂を襲うと口述する。警戒したが来襲せず。棚倉卒奥貫貞次郎を捕え糾問し殺す。
同 二十九会藩の細作なる者捕え殺す。
同 二十九増加の兵を帰藩させる。
六・一旗宿・白坂の両戦の大砲の有利を知り、藩より施条砲一門を増加す。
同 十二朝七時、白坂駅西原方口より賊襲来発砲。霧深く兵数知らず。藩兵堅く守り破る。
同 十二賊兵白川を襲う。守兵激撃して退く。
   太政官へ届書を出す。(本文略)
 十二日朝の白坂襲来について、手負、死人一切無シ。
同 二十三軍監大沼渉、安藤小太郎白川に行き、棚倉城進撃について謀る。
同 二十四三小隊砲二門、白坂を発し白川に進軍と称し、俄かに道を棚倉間道幡沢に達す。関山の守哨兵発砲し、本隊に報するも、応戦の暇なく退去す。我軍、大砲を放って中野村の賊を撃って敗走させる。別に薩長・土・忍・大垣の藩兵、白川口より幡沢・金山の賊兵を破る。官軍は金山に会し、兵を分けて一つは本道より、本藩兵は薩兵と共に間道の狭隘深泥を進み、本道の兵に後ること一時間、賊兵城に火を放って遁走する。本藩兵は大垣藩兵と共に城を守る。
同 二十八藩兵全員は、薩藩一小隊川路正之進に率いられ、白川と棚倉の間にある堤村に移り同所を守る。
同 二十九河原田村近辺に五、六百の賊兵がいると聞いて、暁三時堤村を発し釜子村を過ぎ、館林の兵と合して大隈川に至る。霧を利用して川岸に散兵する。霧が晴れたので、山上より大砲を撃ち、歩兵は吶喊(とっかん)して川を渡る。賊兵は狼狽して二子塚寺山に火を放て敗走する。館林の兵が山上の大砲を守り、本藩兵は追撃して二子塚に至り、石川と白川の道を開くため、二小隊と薩一小隊と共に蕪内新地山を攻めたが賊兵は不在。関和久村に転進すると賊兵がいた。砲戦少時で賊兵は敗走する。遂に近村処々の賊兵を一掃し、白川に達し、同日堤村に帰る。賊兵は矢吹駅に入ったが、賊の守兵が官軍が来たと見誤り、発砲の上火を放って乱走す。小田川の賊兵、矢吹の火を見て狼狽して走る。賊地の住民が来て情報を提供するようになったので、賊の動勢を知ることが出来た。
七・二堤村から陣を釜子村に移し、本営を長連寺に置く。
   太政官へ、七月四日届書を出す。(本文略)
同 七薩兵と共に大巡邏をなす。釜子村の北一里半畑村に至り、遠眼鏡で視ると、東北一里三条目村口に賊兵が胸壁を築いて防禦しているを見る。
同 十六彦根・土佐藩の戍衛に所属する。浅川村に賊兵千余人が襲来との急報により、薩一小隊、本藩一小隊を応援として出し、賊兵の背後に廻り、合撃して之を破った。同日釜子村に帰陣した。
   太政官へ、七月二十一日届書を出す。(本文略)
この戦闘で、賊兵四人討取、我が方に即死・手負無し。
同 二十一軍監安藤小太郎、棚倉に行き三春城攻略の軍議をなす。
同 二十二午後一時、賊一小隊、河原田村に来襲との報により斥候を出す。賊は、大隈川を隔て発砲。二子塚に兵を伏せ誘撃せんとする謀を知って答砲せず。日没になって賊兵皆退く。
同 二十四本藩兵に代って彦根藩兵が釜子村を守るので、本藩兵は、同所を発して、三里半の石川村に至り番兵を張る。
同 二十五石川を発して蓬田村に宿す。此の所は山路狭隘にして輜重の運輸雑沓し、本藩の粮食来らず。所持の団飯のみであった。輜重が夜を侵して近村の民家より、糯米五六苞を買って翌日の粮食とした。
同 二十六三春に進入。秋田氏降伏。戦わずして城下に入り、軍監大沼渉・安藤小太郎が城を請取る。
同、二十八本藩・忍藩先鋒となって、五里程にある本宮に向う。大隈川に賊兵は堡を築いて発砲す。川流漫々として舟筏がない。小隊長渡辺福之進・益子四郎が躍入る。本藩兵は大小砲を連発して二勇士を援く。二勇士は賊兵小銃乱発の中を舟一艘を奪って帰る。賊兵は狼狽して守を捨てゝ退く。我軍本宮を取る。本宮破ると聞いて、賊兵三千は諸藩の持口に来襲す。激戦数時、館林・彦根の持口破れ賊兵が入ろうとする。土佐兵と本藩の三番小隊が援兵として之を撃退す。追撃半里、賊兵は高倉駅に火を放って遁る。
同、二十九二本松城を攻む。本藩の一番小隊は、先鋒の薩兵に属して大いに戦う。他の小隊は殿であった。交戦二時間にして城陥る。
   太政官へ、八月一日届書を出す。
   (本文略)
     覚
  一賊兵生捕    四人
  一同討取     十一人
 右本宮戦争之節
  一城兵討取    六人
 右二本松戦争之節
  一戦死      佐藤兼治
 右之通御座候以上   (略)
三斗小屋口より賊徒押来り、朝五時前より、所々放火・金品強奪。十三か村。以上は領分の二心無い村々である。この他の村々は敵に隨ったので放火を免れた。賊徒二十五、六人、高久村へ押寄せ放火。総勢は不明。越堀駅在陣の烏山藩人数と本藩一小隊繰出す。賊徒逃去った後である。焼失の軒数は取調べて、後日届ける。
 右は七月二十六日、三田深造より大政官へ届ける。
八・一野口右衛門、右放火の始末を御届けの帰路、幸手、杉戸の間にて賊に殺される。
同、三本藩軍監一人、兵十人を出し、諸藩の兵と一団となって、二本松より白川に至る道を開く。
同 十二本藩・忍藩の軍を白川に移す命あり。今夜、須賀川に止宿し、十三日白川に着く。
同、十六総督府の命に依り、彦根に代って湯本口を守る。
同、十九勅使平松甲斐権介東下し、慰労として軍士に酒肴を賜わる。
同、二十本藩兵、三斗小屋口より会津進撃の謀を二本松在陣参謀より命ぜられる。
同、二十二本藩三小隊を大砲二門、館林藩三小隊白川を出発、四小隊は北湯へ潜行、二小隊は大沢村に至る。別に、本藩の新たな一小隊は小島村に在り、ここで合併す。昨夜、那須嶽に出張の間諜帰り、報告す。賊番兵を諸方に布き、大砲を備えている。三斗小屋の本拠に連絡の上の布陣である。賊兵は必ず険に拠って固守すべし。諸兵は、兵粮弾薬の運搬が出来ないので、餅を搗て兵粮となし、弾薬は、各々六十発を背負って山路を進む。
同 二十三北湯の四小隊を二分し、一は、大丸塚を越え不意に賊背に出て別砲を妨げ、且つ三斗小屋の通路を遮断し、一は、那須湯本の賊兵を一掃し、那須嶽を越え、三斗小屋に進む。此所は、鉄鎖によって通る険路なので、兵は困難を極める。ようやくにして三斗小屋に近づく。賊兵は胸壁を設け、鑼喇を鳴し、大小砲を放つ。大丸越えの兵は無路の絶険を進むので大いに後れた。先兵は寡少なので包園を恐れ、山岳に散兵し必死に戦う。弾薬殆んど尽きようとしているとき、大丸越えの兵が到着して、賊兵の背後より激励奮戦す。賊兵は狼狽潰散し、大砲輜重を捨て、山間を越えて走る。大沢村の三小隊、内二小隊は館林藩、黒羽は二番小隊と大砲二門に輜重を率いて小谷村に至る。賊兵一小隊ばかり屯集す。我が兵、家屋の前に布陣して発砲す。賊兵は応戦発砲し、一番小隊長益子四郎は真先に進むところを胸部銃丸貫通し、ひるまず賊兵と組むも深手のため死す。遂に賊営を焼く。別の領内鎮撫の兵一小隊高柳録次郎率い来り合併す。また、家老村上一学鎮撫司となって来り、共に板室に至り賊兵を破る。沼ヶ原に露宿し、翌二十四日払暁三斗小屋に入る。鎮撫の二小隊は、此所より還り、領内鎮撫に当る。
同 二十四藩領と会津の界に大峠の険があり、同所に大堡あり、しかし、賊兵一人も見ず。一小隊をして守らせる。
三斗小屋を出発して、会領野際村に侵入す。中峠の賊を撃つ。峭嶮俄然として、大軍並行することが出来ない。両方の険に散兵して賊の背後に出て、本道より進んだ兵と三面合撃して之を破る。追撃して駒返しの険の砲台を攻む。各所の賊兵来って守る。凡二百人、防戦頗る強し。我一小隊を右の山に昇らせ、賊の本陣の左翼を撃つ。賊兵は、大砲弾薬を捨て敗走す。日没に至るを以て兵を収めて三斗小屋に帰る。
   太政官へ、八月二十六日届書を出す。(本文略)
     覚
 一、賊兵討取 拾六人 一忽砲 壱門
一、臼砲 弐門     一小銃 五挺
  右那須三斗小屋半俵小谷村ニテ
 一、賊兵討取 拾弐人
  右会津中峠駒返坂両所ニテ
 一、戦死一番小隊長 益子四郎
 一、手負一番小隊  益子四郎隊平士 川島磊
   同       同       伊藤弁治
   右小谷村ニテ
 一、手負三番隊   高橋亘理隊平士 波多野八郎
   同       同       秋元倉之助
   右三斗小屋ニテ
 一、戦死三番隊属長 安藤小太郎属長 益子理右衛門
   同  二番隊  渡辺福之進隊平士 鈴木茂右衛門
   同 黒羽ヨリ巡邏隊 興野源太左衛門隊平士 井上鉄太郎
 一、手負病院ニテ死 風野元之亟隊平士 秋元常七(巡邏隊)
 一、手負      高橋亘理隊平士 福田台助
   同       五月女三左衛門附属 青木縫之助
  右中峠駒返両所ニテ
 右之通御座候 以上

 同八月二十八日 会津討入のための編成替が行われ、一部兵士の交代が行われた。隊長と軍監は異動がない。
  一番隊 高橋亘理    以下 四十名
  二番隊 渡辺福之進   以下三十七名
  三番隊 高柳録次郎   以下三十七名
  四番隊 風野六之烝   以下四十六名
  大砲方 柴内宏蔵    以下
  本営  五月女三左衛門 以下二十二名
  輜重方 久野重兵衛   以下 十二名
  医師  伊藤長春    以下  五名
九・一本藩四小隊・施条砲二門、館林藩三小隊臼砲一門三斗小屋出発、会津領音金村着。途中にて、二藩宛の会津在陣参謀並びに土州藩からの文書を受ける。参謀よりは、会津攻略に都合次第来るように、土州藩よりは、日光口の方面へ軍勢を進めるようにとの文面であった。
九・二音金村を出発して大内村に止宿す。薩藩の一小隊と遇う。昨日、芸州・肥州・中津・人吉・今治・宇都宮・大田原の諸軍大内峠の賊兵を破り栃沢ニ夜営を張る。今朝、賊兵逆襲して来て、本藩の兵は退いて火玉峠を守る。また薩藩の一小隊と会う。
同 三大内村を出発し火玉峠に着く。昨日まで連戦の兵を休め、その余の兵を以て関山を攻んとす。賊兵強く要地を守っているので軍をさき、本藩一小隊砲二門、館林三小隊、薩半隊本道を進む。本藩一小隊は右の山より、本藩二小隊、藩半隊は左の山より攻撃す。日没に及んでも勝敗決せず、双方左右の兵を収めた。本道は死者が多く出た。
同 四朝六時過ぎ、休息の兵と合併して関山を攻める。本道の兵は大いに苦戦した。横撃の兵、後れ来て賊の両翼を撃つ。本道の兵は力を得て奮戦したので大勝す。関山村に火を放って、賊兵を追討して本郷村に到着。日没になって同村に止宿す。
同 五未明、本郷村を出発して大川岸に到着。朝霧が濃く、前岸が明らかでない。大砲を発して敵状を試るに賊答なし。先鋒、川を渡って中洲に至れば、対岸より発砲したので、我が兵も発砲して進撃す。先鋒の危きを見て総渡川し、賊塁を抜いて飯寺村に進む。賊兵、村に火を放って遁る。追撃して若松城下河原町口に迫る。賊兵、火を放ってたので、通過することが出来ず、よって材木町の西裏芝生に陣を布く。軍監中村半次郎より、中山口・母成口へ諸軍を出すよう達しがあったので出兵す。賊兵は材木町の社木市楼の中より発砲す。賊兵の勢もっと強く、芸、肥の諸藩退却す。本藩・中津・館林・宇都宮の兵が止まって戦う、彼は要地、我は平地、よく奮戦す。大砲を発し、狼煙の下より衝突す。一弾軍中に破裂す。我が軍死を顧みず血戦す。偶然、前面の材木の崩れたるを見、賊兵少し潰靡す。虚に乗じて市中に攻め入る。賊兵八方に出没し追撃し来る。日没にして一方を潰して出撃す。本藩兵は殿となり、賊兵の追撃をふせぐ。是日の戦略は粗略で、軍列整わず。輜重兵食、弾薬予備の大砲等奪われる。軍夫も散走し死する者若干あり。
同 六諸軍と議し、日光街道を断たんとす。昨日の戦場に到るも賊兵出ず。本城との通路は薩藩、府域の地は本藩、越後口は宇都宮藩、日光口は館林・中津藩が守る。
同 八朝霧に乗じ、賊兵四百人余薩及び宇都宮の戍所へ襲来、本薩一小隊を応援に出す。賊は転じて本藩の戍所に襲来す。応援の軍逆転して挾みてこれを破る。宇都宮軍に捕虜となった者最も多い。長岡藩の重臣山本帯刀なる者を捕えて詰問する。長岡藩四百人、若松城の西二三里高田村の屯所より城中に入ろうとして来たると。
同 十四諸方面の軍に攻城の命あり。本藩は河原町口より進撃し門外にて戦う。一番隊小隊長高橋亘理弾丸にあたって死す。また、大手口の長州・大垣の兵、訪訪の村を破って河原口を横撃す。よって我れ力を用いずして勝を得た。これより内城を攻撃し、本藩大砲二門は城の西方、歩兵は坤方を攻撃す。城中よく防戦、各藩持場を厳守し、日々本丸を攻撃すること四昼夜である。
同 十七城中より降伏謝罪書携え来たり降を乞う。
同 十八各藩に命じて発砲を禁止す。
   太政官へ、九月十八日届書を出す。
   (本文略)
 一、賊兵討取     八人
 一、小銃分捕     五挺
   右関山の役ニテ
 一、賊兵討取     五人
   右本郷町ニテ
 一、戦死      渡辺福之進隊平士 鮎瀬文蔵
   同       安藤小太郎隊平士 平山文之亟
   同       風野六之烝隊平士 井上金太郎
   同       渡辺福之進隊平士 笠井健平
   同       安藤小太郎隊平士 稲沢寅蔵
   同       渡辺福之進隊平士 谷地辰之助
   同       砲手       渡辺銀五郎
   同       同        黒木仁右衛門
   同       益子四郎家来   永井三代治郎
  右河原町裏ニテ
 一、賊兵討取     四人
 一、手負      渡辺福之進隊平士 吉成松治郎
  右飯寺村ニテ
 一、戦死      渡辺福之進隊属  佐藤熊太郎
   同       風野六之丞隊平士 渡辺啓治
 一、手負        大野勇蔵
   同         松本道之助
   同       砲手 阿久津千代之助
  右関山村ニテ
 一、戦死      一番隊長     高橋亘理
   同       安藤小太郎隊平士 渡辺治三郎
  右若松城攻城之節
 右之通御座候 以上
同 十五本藩黒羽より飛報あり。賊徒再び三斗小屋に出て放火す。また、二千余人田島ニ屯集し野州に出んとす云々。参謀に告げて一小隊を本藩に帰えさんとす。
同 十九本藩全軍を旋回し、三斗小屋を警備すべき旨軍監の告諭あり。
同 二十全軍若松を出発して勢至堂に着陣。
同 二十一白川町に着陣。
同、二十二領内逃室村に到着。
本藩よりの巡邏兵と合併して、横沢村に二小隊、半俵村に二小隊、広谷地村に二小隊砲二門を備えた。
同、二十五夜、田島道大川通りに距火夥しく見ゆるの急報あり。よって斥候を出す。賊兵、八百人余百村に入り、雑穀野菜を掠め食して止宿するという。
同、二十六払暁、四小隊を百村に出発させ、二小隊を越堀に置き、賊兵を挾み討たんとす。賊兵は夜半百村を出発し、大田原方面に進むと聞き、越堀之軍を大田原町に進める。たまたま、阿州一小隊、彦根二小隊の通過するのに会う。賊兵は大田原に止宿の後、同夜石上村に止宿す。よって、諸軍と議して、明暁挾み撃たんとす。賊兵、夜半同所を出発す。
同、二十七末明、阿州・彦根・大田原の藩兵は川に沿って賊を追撃す。片府田村にて賊兵の後隊と小戦す。本藩兵は、未明に大田原を出発し、中田原温泉社の前より蛭田村をへて佐良土村に到着す。賊兵佐良上村に来襲す。本藩は三小隊を山上に、三小隊を市中に備え、大砲一発を合図に無二無三に攻撃す。賊兵よく防戦す。本藩兵三面より合撃、吶喊す。賊兵はついに潰走し、箒川を渡り、小川方面に退く。戦い終って阿州・彦根・大田原藩兵到着す。この賊兵は、水戸脱藩の市川三左衛門の軍勢で、総勢六百余人である。賊兵は、不意の攻撃にも驚かず、退くにも隊伍整然としていた。これで、近郷に賊影を見ない。本藩全軍を黒羽城外石井沢村に旋回させ、軍監をして白川総督府に報告して命を待つ。
   太政官へ、九月二十八日届書を出す。
 一、賊兵討取     十一人
 一、分捕        小銃十挺
 一、戦死      渡辺福之進隊平士 新江新吾
   同       同        小室末蔵
 一、手負      砲手       渡辺銀五郎
 一、戦死      高柳録治郎隊平士 佐川久治郎
 右之通御座候 以上
十・十三総督府の命により全軍城中に収む。時々領内を巡邏す。
(奥州戦争日記、黒羽藩戊辰戦史資料により抄録)

明治元年十月十二日、白川口総督正親町殿より、福島表にて感状並びに酒肴料を下された。
     御感状
此度会津追討ニ付孤兵ヲ以テ日光並三斗小屋口ヨリ数十里ノ嶮地数所之賊塁攻破遂ニ其巣窟ニ討入連日烈戦之故巨賊以下及降伏候次第希有之功労存候仍感状如件
  明治元戊辰十月 白川口総督
           正親町中将花押
                   黒羽藩隊長中
    一、酒九斗料金拾弐両
    一、鯣三百五十枚料金五両
  右者福島表ニ於テ御感状一同被下候

(戊辰戦史資料)

 黒羽藩が、五月二十二日出軍より十月十三日凱旋までの百十二日間の接戦、人員、金穀数量は次の通りである。
  兵士 三百二十九名
  軍夫 六百八十二名
  大小接戦 二十余度
  発砲弾薬は多々なり
  金 七千弐百六拾両余
  米 九百五拾五俵余
    金・米は官軍の輜重方附属しない以前の分

  本藩警備の兵食の大略
   米  弐千三百八拾俵余
   味噌 五千貫目余
   梅干 若干樽
   タクワン 若干樽
   炊事場  弐拾参箇所

(戊辰戦史資料)


黒羽藩戊辰戦域略図

 明治二年(一八六九)六月二日、行政官より左の御沙汰があった。
            大関美作守
小藩ヲ以テ賊域ニ介在シ断然方嚮ヲ決シ各所奮励毎戦奏功藩屏ノ任ヲ逐ケ候段叡感不浅仍テ為其賞高壱万五千石下賜候事

 明治二己巳六月          行政官

大総督府感状

 一、高一万五千石依戦
   功永世下賜候事
   明治二己巳六月         太政官
(戊辰戦史資料)


戊辰の役御賞典高

 明治二年九月二日、兵部省の命により、戦死者の月日、姓名を取調べ差出した。
   (別紙)
一、九月十四日会津ニテ戦死  高橋亘理長雄(辰三十五歳)
一、八月廿三日野州小谷村ニテ戦死  益子四郎信明(辰二十二歳)
一、九月三日奥州関山ニテ戦死  佐藤熊太郎英斎(辰二十二歳)
一、五月廿六日奥州白坂駅ニテ重傷病院ニテ死  藪智次郎光著(辰十七歳)
一、八月廿六日奥州駒返ニテ戦死  益子理右衛門匡隆(辰四十二歳)
一、九月廿七日野州佐良土村ニテ戦死  新江新吾克己(辰四十六歳)
一、七月廿五日奥州二本松ニテ戦死  佐藤兼治忠兵(辰二十七歳)
一、五月廿六日奥州白坂駅ニテ戦死  小室新吉重次(辰二十八歳)
一、八月廿六日奥州中峠ニテ戦死  鈴木茂右衛門愛茂(辰二十二歳)
一、九月廿七日野州佐良土村ニテ戦死  小室未蔵政重(辰二十五歳)
一、九月五日会津ニテ戦死   鮎瀬文蔵棟正(辰十九歳)
一、九月五日会津ニテ戦死   井上金太郎頼雄(辰二十一歳)
一、八月廿六日奥州中峠ニテ戦死  井上鉄次郎久武(辰十八歳)
                 平山文之丞定猛(辰二十歳)
一、九月十四日奥州会津ニテ戦死  渡辺治三郎友常(辰二十一歳)
一、九月廿七日野州佐良土村ニテ重傷病院ニテ死  佐川久治郎広長(辰二十歳)
一、八月廿六日奥州中峠ニテ戦死  秋元常七正章(辰十八歳)
一、九月三日奥州関山ニテ戦死  渡辺啓次郎忠次(辰二十一歳)
一、五月廿六日奥州白坂駅ニテ重傷病院ニテ死  後藤勇助幸由(辰五十三歳)
一、九月五日奥州会津ニテ戦死  高野忠兵衛親郷(辰五十歳)
    〆弐拾人
 (追加)左記ノ弐名ハ追加御届ニシテ招魂社エ合祀セラル
一、八月八日幸手杉戸ノ間ニテ賊兵ニ刺殺セラル  野口右衛門興(辰三十二歳)
一、十月七日病院ニテ死  小室源助秀道(辰三十九歳)
一、四月十九日芳賀郡蓼沼村万福寺境内ニテ斬殺セラル  鈴木庄作(辰四十五歳)
一、同上                       新江寿三郎(辰二十八歳)
一、同上                       長棹速水(辰四十九歳)
 
会津郡河原町ニテ九月五日死  中重村夫卒 池沢治右衛門貞友(辰四十三歳)
会津郡飯寺村ニテ九月八日死  室ノ井村 菊池藤右衛門春宗(辰六十一歳)
会津郡材木町ニテ九月五日死  板室村 月江半之丞照親 (辰四十一歳)
会津郡材木町ニテ九月五日死  柏沼村 八木沢己之重村芳(辰二十歳)
会津郡関山村ニテ九月三日死  川上村 益子善右衛門忠秋(辰四十六歳)
会津郡河原村ニテ九月五日死  寄居村 松本忠左衛門金吉(辰三十一歳)
会津郡材木町ニテ九月五日死  同村 阿久津広之助義助(辰四十歳)
会津材木町ニテ九月五日死   小羽入村 相馬源太郎正之 (辰二十三歳)
会津郡材木町ニテ九月五日死  狸久保村 高久仙蔵益彦  (辰二十五歳)
同上             深沢村 深沢長右衛門峯村(辰三十三歳)
会津若松城下ニテ九月五日手負 同十八日病院ニテ死  高根沢新助勝成 (辰三十一歳)
白川郡西原堀田ニテ五月朔日死 平山忠蔵高知  (辰五十五歳)
 黒羽藩従来格式アルモノヽ外苗字名乗ヲ用ユルヲ許サス然ルニ此戦役ニ従事スルモノニ限リ死者ハ夫卒ト雖石碑ニ苗字名乗共記スルヲ許スノ誓約ヲ為ス然レドモ御届書ニ至ツテハ夫卒ハ苗字名乗ヲ省キ只名ノミヲ以テスルノ旧例ノ如クセリ此事ニテモ当事ヲ追想スルニ足ル
   夫卒死歿計拾弐名
(戊辰戦史資料)

 明治二年己巳十一月廿一日、賞典禄拝載ニ依リ出兵隊長以下其の外功有る者に対し賞与を施行した。
  (例)            五月女三左衛門
戊辰五月隊長之命ヲ奉シ白川口出張毎戦指揮其宜ヲ得竟ニ賊巣ヲ破リ成功ヲ奉シ干城ノ任ヲ尽シ候段不堪感嘆候依之為其賞百五十石令加増刀一腰遣者也

  二年己巳十一月   従五位 大増勤花押
(戊辰戦史資料)

明治二年十二月、大関家菩提所黒羽山大雄禅寺境内一切経堂ノ前面ニ三碑ヲ建立す。
 1 戦死弔祭塔(碑塔類参照)
         表面に廿名の戦死者氏名と銘あり。(略)
 2 軍夫死亡之墓( 〃 )
 3 黒羽表忠碑 ( 〃 )
         文面あり(略)
 明治九年(一八七六)六月五日、明治天皇栃木県知事鍋島幹を勅使として勅宣があった。
汝等曩ニ兇賊鴟張ノ際ニ当リ命ヲ大義ニ致シ或ハ屍ヲ乱軍ノ中ニ暴ス 朕今東巡ノ次親ク其地ヲ経殊ニ追悼ニ堪ヘス依テ県官ヲシテ汝等ノ墓ヲ弔シ聊金幣ヲ賜フ

      (弔祭塔前ニテ拝受ス)
 大正七年(一九一八)十一月、大演習ニ際シ大正天皇の勅使参向の上金幣を賜わる。
 大関家では、戦死者を祭るために招魂社を建立した。明治十一年五月工を起し、十月落成した。十月十三日凱旋の日を以て例祭日と定めた。社殿に次の額と、境内には旧藩士の寄附を以て明治十一年八月建白した石造の常改灯がある。
 1 社殿の内殿前面
    気壮山河 陸軍大将二品親王熾仁
 2 仝  拝殿内
    振天声  明治十年書於東京
             陸軍中将兼陸軍卿山縣有朋
 3 仝  拝殿前面
    黒羽招魂社 太政大臣三条実美書

黒羽神社

 また、陸軍少将曽我祐凖の作った奥州戦争記一巻がある。境内には、益子信明戦死之碑と高橋亘理戦死の碑のほかに、当時の様子を知り得る、地山三田翁碑、雪華那須翁碑がある。

官修墳墓(藪光著)
―大雄寺墓地―

(参考)
明治二年九月一日、兵部省より若松表戍守として出張するよう達しがあったので、次の通り届出た。
   隊長  滝田登
   監察  大関弾右衛門
   筆生方 菊池松太郎
   同   小藤伝三郎
   同   渡辺治平
   号信  山崎新兵衛
   中隊士 矢野隼人
   会計兼器械方 菅生万次郎
   同   益子市太夫
   下役  磯田栄助
   医師 磯良三
   同   熊田小八
   下部十七人
   供人四人
   廐中間一人
   馬一匹
   精兵五十人

 右は、九月二十七日暁六時登城し、それより出発、同月卅日若松着、本陣六日町中屋長左衛門へ宿す。同三年五月廿二日交代済帰国
(戊辰戦史資料)