慶応四年(一八六八)七月十七日、東京奠都の詔が下された。「朕 今萬機ヲ親裁シ、億兆ヲ綏撫ス。江戸ハ東国第一ノ大鎮、四方輻輳ノ地、宜シク親臨以テ其ノ政ヲ視ルヘシ。因テ自今、江戸ヲ称シテ東京トセン云々」と。同十月十三日、天皇は東京西丸城に御着輦、江戸城を東京城と改称した。
同四年八月二十七日、明治天皇即位の大典を挙行され、同九月八日に即位改元の詔を下された。「太乙を体して位に登り、景命を膺けて、以て元を改むるは、洵に聖代の典型にして、万世の標準なり(略)躬、万機の政を親す。乃ち元を改めて、海内の億兆と與に、更始一親せむと欲す。それ慶応四年を改めて、明治元年と為せ。今より以後、旧制を革易し、一世一元、以て永式と為す。主者施行せよ。」と一世一元の制をお建てになった。皇室典範の第十二条に「践祚ノ後元号ヲ建テ、一世ノ間ニ再ビ改メサルコト、明治元年ノ定制ニ従フ」とあるのが、本詔を指している。
明治天皇は、「萬機ヲ親裁」のとおり、以後たびたび詔勅を下されているが、直接に新政体政治に関係する主なものを挙げる。「直諫を求むるの詔・松平容保等寛典ノ詔・政治始ノ勅語・会議親裁ノ勅語・国是諮詢ノ勅語・有司公選ノ勅語・戊辰の軍功を賞するの詔・供御ヲ節シテ救助ニ充ツルノ勅語・贋金処分諮問ノ勅語・徳川慶喜等ヲ寛宥スルノ勅語・刑律改撰ノ詔・新律綱領頒布ノ勅語(明治二年九月)」等である。
この間、黒羽藩として最も難事に直面した。いわゆる明治二年一月二十三日付をもって、薩・長・土・肥の四大藩主は、連書して封土人民を朝廷に奉還の議を上った。しかし、明治元年十一月に姫路藩主酒井忠邦が最初に上ったのであるが、薩・長雄藩に憚って即納しなかったという。
四大雄藩の挙に依って、大小名二百六十一名が版籍奉還をし、大体が終ったのが二年六月十七日である。同日を以って藩知事の命があり、俸祿として、実収石高の十分の一を下賜された。また、公卿、
同 市政司
同 社寺司
同 応接方
二等並 半隊司 八人
同 砲車司六人
同 副器械方三人
三等 小納戸
同 用度司 三人
同 税銀司一人
同 営繕方
同 一人
同 近習
同 山林方二人
同 下之庄山方一人
同 勧農方 三人
同 筆生
同 中士
四等 小監察 四人
同 徒士
(五~六等 寺院省略)
同 社寺司
同 応接方
二等並 半隊司 八人
同 砲車司六人
同 副器械方三人
三等 小納戸
同 用度司 三人
同 税銀司一人
同 営繕方
同 一人
同 近習
同 山林方二人
同 下之庄山方一人
同 勧農方 三人
同 筆生
同 中士
四等 小監察 四人
同 徒士
(五~六等 寺院省略)
此の改革による諸役者は次の通りである。
「明治二己巳年三月改 諸士仲間筆順」
一等 執政職・参政職
〃 浄法寺頼母 益子右近 村上一学
〃 五月女三左衛門
同 軍務総管 浄法寺頼母
二等 軍務副総管 大沼渉 家知事兼
〃 公用人 秋元鉄之助 家知事
〃 興野忠右衛門 同
〃 安藤三郎左衛門
〃 三田稱平 公議人
同 会計総管 大塚仁左衛門軍務管糧兼
〃 梁瀬太郎兵衛
〃 中隊士 滝田登 兼務省略する
〃 渡辺福之進 〃
〃 安藤小太郎 〃
〃 興野鉄太郎 〃
同 砲隊士 稲沢常之助
同 軍務管糧
同 家知事 小山新平
〃 〃 館蔵之助
〃 〃 風野六之丞
〃 〃 小山勘解由
〃 〃 大関弾右衛門
同 権家知事 佐藤官太夫
〃 〃 程島誠七郎
〃 〃 川上五郎左衛門
〃 〃 板倉又一郎
〃 〃 小山権四郎
〃 〃 久野重兵衛
同 学頭 野口行蔵 作新館
〃 〃 武藤秋 剣術
〃 〃 柴内宏藏 砲術
(以下省略)
右は三月十三日、在京諸士に浄法寺頼母から演舌で仰渡された。これをみると、戊辰の戦いに積極的な立場に立ち、参戦した者が多く採用されているが、彼等だけでは藩政はとれないので、従来行政職にあった者が入って急激な変革を避けている。執政は朝政を体し、藩主を補佐して紀綱政治を総攬する。参政は庶務を掌り、公議人は朝命を奉り、藩論を代表して公議所の議事員となる。
特に、藩の公務と藩主家の私事とを判然と分離させるため、家知事が置かれ、藩主家の内治を掌り、藩政に容喙しないことを定めた。
このような藩政改革も、版籍奉還の後の明治二年八月十六日、諸士総登城して、大参事外三職を投票により選挙の申渡しが大監察によって読み上げられた。申し渡しは次のとおりである。
「(略)御政令を遵奉し御旨趣貫徹候様いたし度就ては大参事一人権大参事一人、少参事一人、権少参事一人右四官者重任之義ニ付人選之上伺出候様初 仰出候右者海内一般御制度御変革之事ニ而実に不容易義ニ付(略)其任ニ堪へ候と見込候者を銘々入札に而可申出候尤只今之執政より徒士に至る迄隠居嫡子二、三男ニ不限各見込候者〓無忌憚公明正大ニ相選之名前相認封書にいたし可差出候其上に而札数多きもの相選み 朝廷へ奉伺候(略)」、ついで浄法寺頼母より、演達があった。投票は同八月十七日に行われた。
同八月二十八日に開披され、左記の当選者が上奏された。
当選 大参事 浄法寺頼母
権大参事 大沼渉
小参事 梁瀬太郎兵衛
権小参事 安藤小太郎
権大参事 大沼渉
小参事 梁瀬太郎兵衛
権小参事 安藤小太郎
同九月十三日大参事以下が太政官から任命された。また、藩士の祿がけずられ全て俸録米で支給されることに改められた。藩主からの任命でなく、直接太政官から宣下されたことは、藩政が中央政府との結びつきで行われると解されるもので、廃藩置県へ向かって大きく進んで行くものである。
同九月十二日弁官役所から黒羽藩公用人中として達し書が来た。大沼直記が罷出て御書付を受けた。宣下は次の通りである。
ついで、集議院の公議人も正権大参事から出すことになったので、公議人としての恵念は益々重要なためであろう。衆議の上決定ということになり、二等以上の九十一人の選挙によって三田称平を選んだ。九十一人中六十三札であった。かくして明治二年十一月八日、黒羽藩権大参事の宣下を受けた。権大参事二名のうち大沼渉は内政を三田称平は集議院公議人として藩政を分担して勤めた。しかし、三田権大参事は翌三年閏十月二十六日に願い出て辞職している。(三田地山堂雑記第一篇・明治三年十一月士卒席順)
(参考)明治二年[己巳(月日を佚ス)]従前ノ家老物頭等 留守居、側用人、大目付、総人郷奉行、町奉行、番医師、大児姓、小児姓、近習、祐筆、表中児姓、台所役、江戸本〆、横成役、作事役、山奉行、湯本奉行、茶道頭、徒目付、徒士、代官、蔵役、料理人、馬乗、諸侯を廃して、華族と称する旨仰せ出された。藩士は俸祿を旧石高に照して支給されることになった。
黒羽藩では二年三月九日、増勤が版籍奉還の建議書を朝廷に奉った。
版籍奉建議議
臣増勤頓首再拝謹テ
輦下ニ建言ス方今
大政復古ニ天下同軌ノ基礎ヲ立ン〓ヲ議セラル闔国碁布ノ諸藩既ニ其
盛意ヲ奉戴シ版図ヲ
王室ニ帰スル〓ヲ冀フモノ往々輩出ス異邦三都ヲ堕甲兵ヲ収ノ儀孔丘之時ニ行ハレス而〆今如之実ニ
皇国之
皇国タル所以也[臣増勤]〓爾タル小藩トイヘトモ亦溥天之下ニ非ル〓ナシ六百年ノ衰運ニ際シ久ク名田ヲ假テ私有ス敢テ安スル所ニ非ス義ヲ見テ為サルハ勇ナキ也今謹テ其土其人ヲ奉還シ自ラ名分ヲ守以テ臣節ヲ全セン〓ヲ欲ス微衷区〻不勝懇祈之至伏乞聖照誠煌誠恐頓首頓首
己巳三月十九日
大関美作守増勤花押
弁事
御中
1三田キヨ家文書「地山堂雑記二十一篇」
2大宮司所蔵文書
3黒羽藩史料等による
同四月十八日、御用召に依り参内したところ、版籍奉還ノ件に関し取調を差出すよう達示があった。
今度土地人民版籍奉還可致之旨及建言候条全忠誠之志深ク 叡感被 思食候尚会議を経公論ヲ被為竭何分之御沙汰可被在候得共版籍之儀を一応取調可差出候旨被 仰出候事
四月 行政官
同五月二十八日 種々御下問があったが、版籍奉還の御下問について御答を上った。
版籍返上之義追〻衆議被 聞食候処全ク政令一途ニ出ルノ外無之依テ府藩県三治之制ヲ以テ海内統一可被遊 御旨趣ニ付改テ知藩事ニ被任候 思召ニ候間所存無忌憚可申出候事
五月廿八日
(御答)
版籍返上之義追〻衆議被 聞食候処全ク政令一途ニ出ルノ外無之依テ府藩県三治之制ヲ以海内統一可被遊 御旨趣ニ付政而知藩事ニ被任候 思食之段至当之御儀ト奉存別ニ所存申上候義無御座候誠恐誠惶頓首〻〻
五月廿八日
大関美作守
同六月二十二日 増勤は御用召にて参内したところ、大政御一新に付公卿諸侯ノ称号ヲ廃シ華族と称すべき旨の達しがあり、更に御沙汰書を賜った。
黒羽藩知事任命書(黒羽町蔵)
今般版籍奉還之義ニ付深ク時勢ヲ被為察広ク公議ヲ被為採政令帰一之 思召ヲ以テ言上之通被 聞食候事
六月 行政官
大関美作守
黒羽藩知事被
仰付候事 明治二年己巳六月
印 (戊辰戦史資料)
以上で版籍奉還の経過を略記したが、御一新による藩制改革について略記する。
明治元年(一八六八)十月二十八日藩治職制が公布され、これによって黒羽藩「鎮将府ヲ被廃自分ノ万機御宸断被仰出候旨ヲ達セラル」という次第で、「御親征内治外交ノ詔」による中央集権化に入った。
明治二年(一八六九)一月四日 大塚仁左衛門・風野六之丞・小山勘解由・久野重兵衛の四名が、藩政改正調査掛を命じられた。同七日、諸役者給人から改正に関する意見書を出させた。これによって度々評議が行れた。
同二年三月、藩政改革の大要は次の通りである。
申渡覚
今般王政復古御一新ニ付総而旧幣之風更ニ一洗致シ厳重家政向改正専質素節倹可為肝御布告為之右ハ方今之急務ニ付夫々改革筋并諸役筋名等改正申付候右ニ付別紙調帳相渡候間其段可相心得者也
巳三月
諸役職名并人員
一等 執政職二人
一等 参政職二人
一等 軍務知事一人
二等 同副知事一人
同 公用人一人
同 会計知事二人
同 中隊司四人
同 砲隊司一人
同 軍務管糧一人
同 家知事四人
同 権家知事一人
同 弁事 四人
同 学頭
同 軍務監察二人
同 小隊司 四人
同 器械方一人
同 上士
同 民政司
馬医、坊主、台所小役人、足軽小頭、徒之者、郷回り、町回り、足軽ヲ廃シ、更ニ職制官祿及ヒ其定員ヲ定ム左表ノ如シ
○改正職制表 | ||||||||
職名 | 官禄 | 人員 | 職名 | 官禄 | 人員 | 職名 | 官禄 | 人員 |
大参事 | 一〇石 | 一 | 権大参事 | 九石二斗 | 二 | 少参事 | 七石二斗 | 二 |
権少参事 | 六石四斗 | 二 | 軍務総括 | 六石 | 一 | 軍務判事 | 四石八斗 | 一 |
公用人 | 五石六斗 | 一 | 中隊司 | 四石 | 四 | 砲隊司 | 四石 | 一 |
文学教授 | 五石六斗 | 一 | 武学教師 | 四石 | 二 | 民政司 | 四石八斗 | 四 |
小隊司 | 四石八斗 | 四 | 器械方 | 三石二斗 | 二 | 刑法司 | 四石八斗 | 一 |
大監察 | 四石八斗 | 一 | 伝事 | 四石 | 三 | 公用補助 | 四石 | 一 |
半隊司 | 二石四斗 | 八 | 砲車司 | 二石四斗 | 六 | 文学助教 | 四石 | 二 |
武学助教 | 二石四斗 | 二 | 民政従事 | 三石二斗 | 四 | 会計従事 | 三石二斗 | 七 |
分隊司 | 二石 | 一六 | 鼓手長 | 二石 | 一 | 書記 | 二石四斗 | 三 |
民政主簿 | 二石四斗 | 三 | 会計主簿 | 二石四斗 | 二 | 刑法従事 | 二石四斗 | 四 |
小監察 | 二石四斗 | 三 | 公務筆者 | 一石六斗 | 二 | 民政筆者 | 一石六斗 | 四 |
会計筆者 | 一石六斗 | 四 | 軍務筆者 | 一石六斗 | 二 | 諸隊伍長 | 一石六斗 | 一六 |
器械属吏 | 一石六斗 | 三 | 刑法筆者 | 一石六斗 | 二 | 捕亡 | 一石六斗 | 五 |
監察筆者 | 一石六斗 | 二 | 邏卒 | 一石六斗 | 三 |
後チニ年更に庁中ノ事務ヲ分テ四課ト為ス、曰ク庶務課戸籍社寺記録等ノ事ヲ掌ル、曰ク租税課正租雑税収入等ヲ掌ル、曰ク刊法課断獄聴訟等ノ事ヲ掌ル、曰ク会計課出納一切ノ事ヲ掌ル、而シテ職名俸給モ亦改正スル左表ノ如シ
○再改正職制表 | |||||||
職名 | 知事 | 大参事 | 権大参事 | 少参事 | 大属 | 権大属 | 少属 |
月俸 | 六五、五 | 二五、 | 一七、五 | 一二、五 | 一〇、 | 七、五 | 六、二五 |
表中(、)ヲ以テ円位ヲ示ス | ||||||
職名 | 権少属 | 史生 | 庁掌 | 等外一等 | 等外二等 | 等外三等 |
月俸 | 五、 | 三、五 | 三、五 | 二、五 | 二、 | 〇、七五 |
而シテ文学武術ノ教官ハ旧ニ依リ別ニ准等ヲ設ケス(略)
禄制
禄制改正ノ公達ニ依リ明治二年[己巳]某月則チ之ヲ改正ス、其元禄五百石[現米二十一石二斗余]ヨリ同百四十石[現米十四石二斗余]ニ至ル現米ヲ現米十六石ニ、元禄百二十石[現米十三石五斗余]ヨリ同七十石[現米十石三斗余]ニ至ルヲ現米十四石二、元禄五十石[現米九石九斗余]ヨリ九口米[現米七石七斗余]ニ至ルヲ現米十二石ニ、元禄五十石[現米五石一斗三升]ヲ現米十石ニ、元禄五口米[現米六石四升八合]及ヒ三口米金四両[現米五石四斗金一両一分]ヲ現米八石ニ、元禄二口米金四両[現米三石六斗金四両]ヲ現米六石ニ、元禄一口米金三両[現米一石八斗金三両]ヲ現米四石二、元禄一口米[現米一石八斗]ヲ現米二石ニ定ム(略)此他増封ノ賞典禄[即チ戊辰ノ戦功ニ依リ拝受スルモノ]有功ノ士卒ニ分与スルコト現米二十五石ヨリ同一石八斗ニ至ル差アリ、其人員四百八十三名而シテ永世終身ノ別アリ(略)
禄制
禄制改正ノ公達ニ依リ明治二年[己巳]某月則チ之ヲ改正ス、其元禄五百石[現米二十一石二斗余]ヨリ同百四十石[現米十四石二斗余]ニ至ル現米ヲ現米十六石ニ、元禄百二十石[現米十三石五斗余]ヨリ同七十石[現米十石三斗余]ニ至ルヲ現米十四石二、元禄五十石[現米九石九斗余]ヨリ九口米[現米七石七斗余]ニ至ルヲ現米十二石ニ、元禄五十石[現米五石一斗三升]ヲ現米十石ニ、元禄五口米[現米六石四升八合]及ヒ三口米金四両[現米五石四斗金一両一分]ヲ現米八石ニ、元禄二口米金四両[現米三石六斗金四両]ヲ現米六石ニ、元禄一口米金三両[現米一石八斗金三両]ヲ現米四石二、元禄一口米[現米一石八斗]ヲ現米二石ニ定ム(略)此他増封ノ賞典禄[即チ戊辰ノ戦功ニ依リ拝受スルモノ]有功ノ士卒ニ分与スルコト現米二十五石ヨリ同一石八斗ニ至ル差アリ、其人員四百八十三名而シテ永世終身ノ別アリ(略)
(栃木県史近世四・史料篇所載 栃木県史料黒羽藩)
藩政改革は更に続き、明治三年四月廿四日の「申渡覚」によると、「公廨私邸を分別し且家禄御定之振合ニ其き一門以下平士ニ至迄総て士族と称し給禄適宜改革耳致之旨被仰出(略)此度更ニ旧幣を断去し諸士より以下に至迄諸勤名席格并知高扶持方之称相廃士族之分三等ニ定め卒族の分二等とし(略)右者全く千古未曽有の変革にて実ニ不容易儀ニ候(略)庚手四月」とある。
これは、黒羽藩のみでなく海内一般の政令である。そして、取調べの上仰出されることが大参事から演達された。同十一月二十八日藩政改革が仰出された。それによると「士族三等卒族二等ノ称ヲ廃シ士族卒二等トシ(略)」と、家格制の完全廃止である。同二十九日、兵備関係の改革達しがあった。八項目に渡る。四年二月十四日軍制改正があり、常備兵三十四名を以て常備とした。
こうして、藩解体へと一歩前進し、中央政権の施策は固まって行くのである。
(参考)慶応四年七月、白川口出張参謀補助から、浅川塙釜子三陣屋取締を命じられた。黒羽藩では出張人員を編成した。
棚倉領 [惣取締] 家老益子右近以下十一名(内農兵六名)
塙陣屋附 [大吟味役] 大塚仁左衛門以下十名(内農兵五名)
釜子陣屋附 [大吟味役] 梁瀬太郎兵衛 以下九名(内農兵五名)
浅川陣屋附 [御奉行] 高梨伴右衛門以下十六名(内農兵十名)
惣人数四拾三人外三人後ニ出張セリ
一八日 黒羽出発蓑沢村泊九日棚倉着翌日各所ニ分派セリ
一、棚倉城附 高四万石
一、塙陣屋附 高五万石
一、釜子陣屋附 高三万二千六百石
一、浅川陣屋附 高三万石
合計高拾五万弐千六百石
参考)明治二年二月、行政官より達しあり。棚倉表民政取締を免ぜられ、棚倉城は阿部台之助へ引渡すこと
同二月十六日、行政官より達しあり。南部彦太郎領のうち左の領地の取締を命ぜられた。直ちに出張人員を編成した。
陸奥国 北郡 三ノ戸郡之内 二ノ戸郡
高合四万三千三百五十石八斗四升
権知事 村上一学 権判事 風野六之丞
同上 小山権四郎 小出勘解由
調役 高梨伴右衛門 那須眞小一
調役心得 塚本豊平 室井平治
同 田中金右衛門(金平) 瀧田謙之助
同 大場誠三郎 戸上常太郎(護助)
同 菊池定之助(秀勝) 井上完造
同 植竹儀右衛門 斉藤半六
捕亡 藤田民之助
四月八日盛岡着
(戊辰戦史資料)
三戸郡三戸 権知事本局 村上一学外
二戸郡福岡 風野六之丞外
北郡野辺地、田名郡 小山勘解由外
※明治二年五月北奥県と命名して統治す。後三戸県・江刺県へと引きつがれる。