2 廃藩置県と黒羽藩

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 明治四年七月十四日、在京の権大参事が参内を命ぜられ、廃藩置県の詔勅を賜わり、増勤は黒羽藩知事を免ぜられた。
          従五位大関増勤
   免本官
    辛未七日             大政官
(黒羽藩史資料)

 これは、明治政府の集権的統一国家の建設の断行である。藩知事に命じたが実が挙らないので、政令を一に帰して有名無実の弊を除くと詔勅に明記されている。
 軍事方面をみると、兵馬の権を中央に収め、基礎を鞏固にする必要がある。財政方面からみると、経常歳入は奉還地から納入する地租とわずかな海関税であるのみで、明治元年の経常歳入は総支出の十分の一にしか当らなかった。政府は巨額の紙弊の発行と借入金を行った。これからも、政権の中央集権が必要であった。加えて政府部内の分裂の危機による割拠主義の打破が必要であった。また、諸外国の侵略に備えるために強力な統一国家の建設が急務であった。
 藩知事の中には、詔勅の出る前に廃藩置県を申請しているが、全国二百数十藩の藩知事は、政権と兵馬の権を握っていた。これを流血をみることなく実現したことは驚くべきことである。ここに七百年以来の封建政治は廃絶され平安朝以前の昔にかえったのである。
 太政官は「今般藩ヲ廃シ県ヲ被置候ニ付テハ追テ御沙汰候迄大参事以下是迄通事務取扱可致候事」との書付を渡した。
増勤は、七月二十日に告諭を沙汰した。
「我等不肖之身ヲ以テ版籍奉還之後因襲ニ依テ藩知事命ヲ蒙リ日夜協心奉儀在候処今般億兆保安万国ト対峠するの叡慮ヲ以テ藩ヲ被廃知事職被免更ニ郡県ノ御制度被 仰出此間追々一統身分ノ儀モ御改正可相成候得共 宣命之通不得止事時勢ニ付上下人心無倦事且聊ニ而も 朝命ヲ誹謗シ或ハ世説ニ動揺致ス等決テ不相済候間此上銘銘潔ク御趣意ヲ奉載シ文武ヲ盛大ニシ旧一藩ノ美事ニ至ラン事一同可心掛候事 辛未七月廿日 従五位大関増勤」である。
 七月二十四日、増勤の出京が仰出され、「家令益子信将、家扶風野六之丞、家従大野尚」が任ぜられ、準備に当った。翌二十五日、太政官から帰京するようにとの達があった。次いで十月八日太政官は聖旨を奉じ次の召命を達した。
「(略)華族は四民の上に立ち、衆人の標的と相成べき儀に付、今般一同輦穀の下へ召寄せられ(略)」である。黒羽藩の元領主金主三人から三拾金の献納があった。八月十二日、十三日増勤は旧官内村民に「遠祖以来社稷ヲ安シ候ハ全ク汝等積年之丹精ニ因ル依テ聊タリトモ振恤致遣度(略)朝意ヲ奉戴シ産業相励可申候将村々一統へ留別ノ寸志トシテ酒肴料差遣候村正之者ヨリ無洩落可申聞者也 辛未八月 従五位大関増勤」として、次の金高を下された。
  一、金九拾八両三分
  一、金八拾七両弐分弐朱但上下之庄村々へ御留別として被下分
   但士族弐百六十弐人御吸物御酒料被下
    卒七十七人
     合四百三十九人也
 七月十四日に諸設人、士族卒族は御暇乞をし、翌十五日払暁、黒羽を出発した。士卒族皆お見送りして金丸源五郎窪に至り、増勤は暫時御休息し御暇を下された。
 明治四年(一八七一)十月二十二日、出府した華族に明治天皇は「華族ノ留学ヲ奨励スルノ勅語」を下された。「(略)特ニ華族ハ、国民中貴重ノ地位ニ居り、衆諸ノ属目スル所ナレハ、其履行固ヨリ標準トナリ、一層勤勉ノ力ヲ致シ、率先シテ之ヲ鼓舞セサルヘケンヤ。其責タルヤ、亦重シ。(略)眼ヲ宇内開化ノ形勢ニ著ケ、有用ノ業ヲ修メ、或ハ外国へ留学シ、実地ノ学ヲ講スルヨリ要ナルハナシ。而シテ年壮年ヲ過キ、留学ヲ為シ難キ者モ、一タヒ海外ニ周遊シ、聞見ヲ広ムル、亦以テ知識ヲ増益スルニ足ラン。(略)汝等能ク斯意ヲ体シ、各其本分ヲ尽シ、以テ朕カ期望スル所ニ副フヘシ。」との御意であった。
 この趣旨によって明治五年(一八七二)一月十九日、増勤はアメリカ留学のための洋行願いを東京府に提出した。二月十三日、文部省より、「米国留学免許」が渡され、十四日、「渡航免許状」が外務卿から交付され、増勤・瀬谷小次郎、高知県貫属平民小野梓の三名は、二月十八日横浜からサンフランシスコに向って出帆した。
 明治四年九月、増勤は、東京府に対し、「帰農御願書」を提出し、救援の継続と士卒の開墾の基のため賞典米の下賜を願い出た。一部は海陸軍費用として献納も申し出ている。いかに士卒が困窮しているかうかがわれる。
 廃藩置県後の黒羽藩士の家祿・賞典祿については省記する。
 明治四年十月、増勤は「(略)旧封ノ県ヲ廃セラルヽニ至リ大蔵省ヨリ世禄ト賞トヲ引分ヘクノ命ニヨリ最前賞スル処ノ文意ニ照シ賞典ト家祿ト分別シ更ニ今充行候遠隔之辞令不任意旧藩ノ大参事ヘ依頼シ今施行候条此旨相違也」として賞典永世祿・賞典終身祿に分けて各員に充行った。
 藩主・藩士への家祿支給は政府が行って来た。加えて藩債も肩がわりした。これは二百七十七藩の実収高の二年分に当る金額である。このため、明治六年の家祿税と家祿奉還制度の公布、明治九年の金祿公債交付による秩祿処分案を公布した。
 黒羽藩では明治七年に賞典祿奉還差出しがあり、ついで士族一同より願書が出され、ついで明治八年(一八七五)に賞典禄奉還添願書が増勤の名を以て栃木県会鍋島幹に出された。「(略)規則之通資金至急御下渡被成下度聊延引相成候ハゝ銘〻着目モ外レ終生計之基ヲ空セン〓ヲ深ク苦心仕候(略)急速資金御下渡被成下候様此段奉添願候也 明治八年三月」と奉還願人連名の願に添えられた。
 当時、賞典永世祿は百弐人米七百三石、終身禄は百四拾八人米三百七拾五石三斗、計二口弐百五拾人合米千七拾八石三斗である。
 明治八年八月になって終身御賞典資本金が下渡され
 例えば、賞典祿終身之分 現米四石 四年分 一、金百五円弐拾四銭壱厘六毛であり、最下位は 壱石八斗 四年分 一、金四拾七円三拾五銭八厘七毛である。永世祿については不明
 しかし、藩県庁の不当処分による者の救済が明治九年(一八七六)に達せられた。黒羽藩でも明治十二年に五名が申し出てたが栃木県判事補によってそのまゝ判決されている。更に明治三十年(一八九七)第十帝国議会でも救済を決議している。