3 黒羽の新政支配

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大政奉還・王政復古によって明治新政も基礎を固めて版籍奉還・廃藩置場によって完全な天皇親政となった。この間「御親征内治外交ノ詔・誓文の勅語・国威宣布の宸翰・会議親裁ノ勅語・有司公撰ノ勅語・贋金処分諮問ノ勅語・刑律改撰ノ詔・新律綱領領布ノ勅語」を下された。以後、「改暦ノ語・地租改正ノ勅語・立憲政体ヲ立ツルノ詔・地租減額ノ詔・地方各官ニ下シ給ヘル勅語・国会開設の勅諭・市町村制発布ノ上諭等、地方政治に関係のある詔勅が下された。
 明治元年(一八六八)六月四日 府藩県三治の制により、下野国真岡知県事が置かれ、鍋島道太郎(真幹)が任命された。その支配高は、旧幕府代官支配地八万五千十二石一斗四升四合六勺、那須郡高一万六千百四拾九石一斗六升一合八勺である。(栃木県史料)仮庁を宇都宮旧城内に設け、八月に石橋に移した。
 同二年二月十五日、日光県が設けられた。日光県庁が、明治四年辛未年に管轄下に配布した「村役人心得条目」によると、旧幕時代の名主外村役人の心得を使用している。次に全文を載せる。
   村役人心得条
一、名主役之儀ハ一村之長として百姓共へ伝達之事件を始め平生諸世話駈引等其役務たり時により村中之惣代に可相立事に付謹而御仁政之御趣意を奉し可遂精謹事

一、役威に傲り尊大驕奢の所行堅く誡之村内百姓共ゟ申出る儀を是非をもわかたす差押へ情実を上達せす依怙の取計等致す間敷方正廉直を旨とし条理明らかに可取斗事

一、追〻布令達する趣吃度相守旨趣審に村内へ可申聞事

一、百姓離散せさる様相心掛貧家之ものあらハ難渋いまた行詰さる内扶助の手立をなすへし自然下におると心に不任程の事ハ速に可申出常に花美の奢を警め無益の費を肖き農業を勧め諸人成立之心遣可為肝要事

一、田畠不荒様堤防溝川道橋等修補に怠るへからす自然水損等に可及大破下において普請難調程の事、速に可出申芳場起し返しの儀も村中申合精々可心遣百姓の力に不及事は是又速に可申出事

一、田畠用水筋山林等境界を正し諍論不起様兼而可付心事

一、御用人馬ハ不及申往来のもの人馬継立昼夜に不限無滞様兼而其仕法立すへき事

一、御米蔵之儀常々心掛雨もり等無之様可加修復勿論番人等緩せにすへからさる事

一、収納米其外諸上納物念を入百姓のいたみに不相成様可心掛事

一、官用と号し村内へ不当の出金為致間敷村内諸入費可成丈相減し明細に書記し置百姓中疑を不生様其訳具に申聞せ清廉の取斗可為肝要事

一、水利を起し土地を開き良木を植付物産を盛んにし永在村里の栄を斗るへき事

一、村内惣和善を勧め悪を誡め風儀を宜に導事村役人の勤方にあり心得かた不宜ものあらハ慇懃に教諭を加へ行状を改めしむへし且又諸人に抽心得宜ものあらハ逐一に可申出事

一、常に戸籍の取調不怠村内に不審のもの不可留置事

一、凶年飢歳の手当無怠可遂心配事

右之通可相心得もの也
 
 明治四辛未年 日光県庁印
(両郷渡辺禎治家文書)


村役人心得条目(明治四年)(渡辺禎治家蔵)

 同年七月二十日、真岡県と合併した日光県権知事鍋島幹が同四年五月十七日知事になった。明治四年(一八七一)十一月十四日、日光県を藩県と合せ栃木県とし、宇都宮以上の藩県を宇都宮県として新設した。那須郡は宇都宮県の管轄下になった。
「宇都宮県 今般其県被置候ニ付従前管轄之県々ヨリ地所物成御村等未年ヨリ可受取事 辛未十一月 太政官」が達せられた。(明治五年一月九日、黒羽へ出張所を設ける禀状を出して許可されたが、同年八月二日、出張所が廃止された。)
 明治六年六月十五日、宇都宮県を廃し、栃木県へ合併された。同十月二十三日、橡・朽の両字を栃の字に一定した。(明治十七年、県庁を宇都宮に移した。)
 明治四年六月区画制定があり、日光管内部号区号が定められた。同十一月、正副戸長の月給下されの儀について伺書を出し、名主・年寄の給料の振合を以て、相当支給の押印があった。同十二月十七日、大総代を戸長、小総代を副戸長と改称した。
 明治五年(一八七二)一月二十八日、宇都宮県は大小区画を制定するため禀状を大蔵省に出した。
「一、管内四郡分区ノ儀、五百戸ヲ以一区ト定メ、戸長一員・副二員ヲ置、別ニ里正ヲ置カス、区内ノ事務一切為取扱不苦候哉

一、戸長月給八円、副四円給与候テ可然哉 但、右給料半ハ区内ノ戸数ニ附シ、半ハ区内ノ石高二割付ケ不苦候哉」

伺の通り指令が二月五日にあった。直ちに管下に達した。黒羽では二月二十二日達書を順達している。
 明治五年三月七日、前の大蔵省指令の通り管下に布達した。次表は布達である。
○大小区画及正副戸長一覧表区画ハ終始改正ナシ、戸長ノ氏名ハ明治六年ノ現員ニ依ル、故ニ前後ノ任免は一切略シテ之ヲ記サス
大小区郡名
七ノ二那須高柳村、東遅沢村、石林村、今泉村、河原向新田村、南郷屋村、戸野内村、岡村、箕輪村、東小屋村、大原間村、下原崎村、西沓掛村、山中新田、沼野田和村、三本木村、木曽畑中村、東沓掛村、北弥六村、前弥六村、唐杉村、上厚崎村、上大塚新田、袋島村、西遅ノ沢村、中内村、鹿崎村五百六十六同石林村磯巽
同西沓掛村室井恂七郎
七ノ三鹿畑村、桜井村、小滝村、堀米村、久保村、乙連沢村、下奥沢村、上奥沢村、荻ノ目村、平林村、刈切村、七軒町村、田中村、泉村、大和久村、赤瀬村、山中村、川下村、小泉村、吉際村、寺方村、中田原村、船山村、荒井村、松原村、竹ノ内村、市ノ沢村、練貫村、町島村、和久村五百十八 
那須郡大田原士族斎藤利貫
同練貫村渡辺六郎平
七ノ四桧木沢村、蜂巣村、余瀬村、北金丸村、南金丸村、大豆田村、狭原村、小船渡村、八塩村、上滝田村、下滝田村、寺内村、湯殿村、表亀山村、山田村、入亀山村、大久保村五百八十五同黒羽士族土屋鼎之助
同北金丸村松本惣八
同山田村斎藤仙一郎
七ノ五黒羽郭内侍邸、石井沢村、阿久津村、前田村、堀ノ内村、大輪村六百〇八同阿久津村滝田幸一
同黒羽士族塚本忠信
同同吉田寿八郎
七ノ六野上村、須佐木村、雲岩寺村、川上村、南方村、木佐美村、寺宿村、大久保村、久ノ又村、中ノ内村、河原村、西郷村五百八十一那須郡烏山士族田川茂実
同野上村石川精一郎
同西郷村渡辺瀬一郎
七ノ七越堀宿、鍋掛宿、樋沢村、野間村、羽田村、寒井村、河田村、稲沢村、沼野井村、杉渡土村四百三十一同烏山士族小口喜六
同越堀宿藤田真之助
同鍋掛宿菊池剛二
七ノ八寺子村、漆塚村、大島村三百十二同芦野宿加藤三平
同寺子村鴇巣金右衛門
同黒羽梁瀬肇
七ノ九芋渕村、梁瀬村、向宿村、岩崎村、伊王野村、大輪須村、唐木田・九作村、中梓・下梓・東吉ノ目村、大畑村、沓石村、簑沢村、大ケ谷村、湯船村、芦野宿、塩阿久津村、大久保村、西吉ノ目村五百五十四同芦野宿戸村謙橘
同簑沢村三森禎之助
同芦野宿大平量蔵
七ノ十横岡村、寄居村町組、同村西組三百七十同横岡村渡辺惣兵衛
同寄居村西組佐藤〓之助
同同町組大島皆人
七ノ十一高久村、鳥野目村、小結村、湯本村、黒磯村四百〇三塩谷郡喜連川士族逸見為庸
那須郡黒磯村渋井兼広
同黒羽士族堀江壮左衛門
七ノ十二木綿畑村、湯宮村、鴫内村、百村、油井村、細竹村、岩崎村、亀山村、板室村、箭坪村、高林村、赤坂村、赤渕村三百八十五同黒羽士族新江嘉久治
同高林村藤田良之助
同東小谷村白井東一
(栃木県史・史料近現代一)

 同年三月十五日、さきの達書に「但区内事務取扱之義ハ追而御規則相達候迄者従前之通相心得云々」とあった、「正副戸長事務取扱規則・諸費額并ニ戸長給料配賦雛形ヲ制定」して、是日管内に布達した。
 同年四月一日、宇都宮県庶務課は、伍長心得を達した。「伍長ハ其中ヲ一家内ノ如ク、総テ懇切ニ世話シ、専ラ和順共議ヲ旨トシ、第一御法度ヲ守リ、農事家業専ラ相励マシ、小事迄モ心ニ付、能其過誤ヲ防ギ、伍中ヲ安全保護スル事可為肝要事」と伍長の心構えを述べ、以下七項目にわたって心得を述べている。
 明治六年、『栃木県・大小区画制置簿』(下野史料保存会・徳田浩淳)によれば、「宇都宮県と栃木県が合併した最初の大小区制である。大区は十三大区・小区は百十四小区、村数一千百二十五ヶ村(町宿共)小区は八ヶ村から二十ヶ村位で、四ノ小区は四十ヶ村、八の小区は五十二ヶ村が一区画であった。」
 黒羽管内は、第四大区六ノ小区から九ノ小区である。黒羽町内の村のみを同書から書き抜いて記す。
 第四大区六ノ小区(十三ヶ村)
○須賀川村○須佐木村○雲巌寺村○川上村○南方村○大久保村○矢倉村(外略)

 同七ノ小区(二十四ヶ村)
那須郡阿久津村○石井沢村○前田村○堀ノ内村○大輪村○野上村○桧木沢村○蜂巣村○余瀬村○北金丸村○南金丸村○大豆田村○八塩村○上滝村○下滝村○山田村○亀山村○入亀山村○寺内村○湯殿村(外略)

 同八ノ小区(二十四村宿)
○寒井村○河田村○木佐美村○寺宿村○大久保村○久野又村○中之内村○河原村(外略)

 同九ノ小区(十七ヶ村宿)
  那須郡両郷村(外略)
 明治六年十月、「栃木県管内戸長副姓名簿」(下野史料保存会・徳田浩淳篇)によれば、黒羽町内の戸長副姓名は左記の通りである。
 第四大区六ノ小区
  戸長 田川茂實   ○那須郡烏山屋敷町住
  副  藤田重     那須郡小砂村住
  同  星兵右ヱ門   同郡盛泉住
 同   七ノ小区
  戸長 上屋鼎之助  ○那須郡南金丸住
  [学区戸締副戸長兼] 滝田幸一  那須郡阿久津村住
  副  塚本忠信   ○同郡前田村住
 同   八ノ小区
  戸長 菊池剛二   那須郡鍋掛村住
  副  堀江壮左ヱ門 ○那須郡前田村
  副  鴇巣金左ヱ門  那須郡寺子村
 同   九ノ小区
  戸長 戸村謙橘    那須郡芦野宿住
  副  加藤三平    同
  副  渡辺惣兵ヱ   那須郡横岡村住
 明治十一年(一八七八)十一月八日、各支庁及各大小区を廃し、郡役所が設置され、那須郡役所は大田原駅に置かれ、藤田吉亨が郡長に任命され、県令鍋島幹によって布達された。
 明治十二年五月十日、戸長役場が六月三十日に設置されることが布達され、公選によって戸長が任命された。太政官は、明治十一年七月戸長職務の概目十三条を制定したが、これによって戸長の職務が行われた。
 明治十三年一月六日、町村会が実行される旨布達された。同十七年六月二十七日、連合町村会の開設が達せられた。
 これよりさき、明治十一年十二月十六日、十二年より府県会規則が実行される布達があり、選挙被選挙人名簿の編成法が布達された。明治十二年四月十四日、第一回の県会が開かれた。
 黒羽の新政支配については概記に終ったが資料の発見によって加えられることが出来れば幸である。