1 地租改正

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明治政府になって先づ第一に取りあげられた問題は、租税であった。従って土地制度と土地課税制度の大変革がなされた。今迄の農地保有地に私有権を認め、地券を発行し、今迄の石高制度による課税を廃して、金納定額地租としたものである。初め、政府は壬申地券を発行して申告地価による地租算出を考え出したが、明治六年(一八七三)地租改政法が制定され、それにより土地丈量収穫高の決定地価および地租の算出がおこなわれた。全国的には地租改正事業は、明治五年(一八七二)から明治十四年(一八八一)ころまでおこなわれた。これは明治四年九月(一八七一)大蔵省令によって、「是迄米納之向も、願次第石代納メ御差許候事ニ付、村々百姓銘々之夫食取入候外へ、何品ニ限ラズ勝手作付致シ候方、下々利益ニモ相成可ク」として作付の自由を許可した。ついで同五年二月(一八七二)田畑永代売り渡しの禁止をとき、売買の自由を認めた。従来貢租は、耕作者が納入したが、その土地の所有者が課税され納入することにより、土地の所有権が明確にされた。

地券(田)


地券(畑)

 栃木県の地租改正事業は、明治五年(一八七二)壬申券の発行によりはじまった。最初この事業は、栃木・宇都宮両県にわかれて実施されていたが、明治六年(一八七三)栃木県として合併すると統一的に実施された。栃木県の壬申地券の発行が完了したのは、合併後約一年を経過した明治七年五月(一八七四)であった。栃木県では、模範村制度が採用されている。この方法は、小区内の十五~二十か村で一模範組合をつくり、組合内の比較的上等な一村を模範村とし、組合内各村の土地の等級を比準して決定するものである。この地位等級の決定は、県や国の地租改正事務局の修正をうけながらも、明治十年八月(一八七七)ごろ終了した。そして、県はこの等級の完成に基づき、田の収穫の平均を一反あたり九斗七升一合、畑の収穫の平均を一反に付八斗六升と算出して、同年の関東諸府県長官会議の際に提出した。
 しかし、地租改正事務局は、田一反あたり一石一斗二合六勺、畑一反あたり九斗八合に決定した。その後にこの局側の示した予定収穫量配布のため、再度等級の修正がおこなわれ、明治十一年二月(一八七八)から地租の算出がおこなわれ、同年九月新地租が決定し、耕地の地租改正事業は終了した。耕地の地租改正終了後、山林原野においても地租改正がおこなわれ、明治十三年五月(一八八〇)終了した。
 このようにして、県下各市町村の地租改正が終了されたのである。明治十七年十二月(一八八四)大蔵省通達によって、戸長役場に土地台帳土地所有者名寄帳地租延納賦金台帳を備え、戸長役場は土地に関するすべての事務をおこなった。同十九年(一八八六)登記法によって、土地に関する証券はすべて登記することになって、同二十二年(一八八九)これまでの地券を廃止して土地台帳に登録された地価によって地租を徴収することになった。同二十九年(一八九六)税務署が設置されて、土地台帳は税務署が管理することになったのである。(栃木県百科辞典烏山町史を参考とする)

地租改正水田地価帳
〃 陸田 〃


地租改正水田地価帳内容


地租改正畑地価帳内容

(注)地券とは明治政府が発行した土地所有の権利証のことで、この地券には、壬申地券と改正地券の二つの種類がある。