農会法
第一条 農会ハ農事ノ改良発達ヲ計ル為ニ設立スルモノトス
第二条 農会ニ関スル規程ハ命令ヲ以テ之ヲ定ム
第三条 農商務大臣ハ、ソノ定ムル所ノ条件ヲ具備スル補助金ヲ交付スルコトヲ得
第四条 農会ニ補助スル金額ハ、北海道又ハ、一府県ヲ通ジテ一カ年四千円ヲ越ユル事ヲ得ズ
第五条 農会補助ノタメ国庫ヨリ支出スル金額ハ、一カ年十五万円ヲ越ユルコトヲ得ズ
このようにして農会は、今後農事講習、各種供進会等を催し、各町村、市郡、県、の農業振興の先駆者となっていった。
郡農林会の主催で農産物等の、品評会が開設された役場から区長宛の通達文である。これによって当時の状況が分る。
二第八四号
本年十二月十日ヨリ十二日〓三日間外拾六品々評会ヲ郡農林会ニ於テ開設候処其筋ヨリ申来リ候条精々御誘導ノ上多数可相成様使配当ヲ煩ハシ度此段及御照会候也
追テ別紙出品目録及御送付候条各出品者ヘ御配布相成度右ハ時時日切迫之場合ニ付出品目録ハ一品弐通ツヽ本月十三日〓ニ当役場ヘ御回送相成度依頼申添候也
明治三十年(一八九七)十一月七日
両郷村役場
久野又区長
池澤熊次郎殿
品評会出品種類
玄米壱升 麦壱升
稗 壱升 粟壱升
菜種壱升 豆類壱升
蕎麦壱升 製茶壱升
製三椏弐貫目 精楮弐百匁
蒟蒻粉弐百目 甘藷五箇
馬鈴薯弐拾箇 梨子五箇
製紙五枚以上 葉煙草一種ニ付弐百匁
木炭方ハ明治三十年度(一八九七)の産ニ限ル
両郷村で坪刈した成績表を次に記す。
明治三十年米作坪刈成績表 両郷村 |
種類 | 株数 | 計量 | 貫量 | 大字名 | 氏名 |
相模坊 | 八十一 | 弐升七合 | 二百四拾匁 | 川田 | 小白井喜左衛門 |
桑嶋 | 五十八 | 弐升三合三勺 | 二百五拾二匁 | 木佐美 | 鈴木兼次郎 |
関取 | 六十五 | 弐升一合三勺 | 二百五拾二匁 | 久野又 | 池澤喜悦郎 |
神力 | 八十三 | 弐升 | 二百六拾三勺 | 大輪 | 室越鶴次郎 |
〃 | 四十三 | 壱升九八、五 | 二百五拾匁 | 河原 | 大塚銀次郎 |
〃 | 七十六 | 壱升九、九合 | 二百六拾五匁 | 中野内 | 菊池仁作 |
関取 | 七十五 | 壱升六合二勺 | 二百五十匁 | 大久保 | 手塚武右衛門 |
神力 | 七十四 | 壱升五合八勺 | 二百五十四匁 | 両郷 | 伊藤与之吉 |
桑島 | 八十二 | 不明 | 二百七拾九匁 | 中野内 | 佐藤源之助 |
相模坊 | 百〇九 | 壱升四合五勺 | 二百五十八匁 | 寺宿 | 松本房之助 |
種類で神力が多く、株数は未だ正条植でないためまち/\で最高が坪当り、百九本で最低が五十八本になっている。枡目では弐升七合が最高で、壱升四合七勺が最低となっている。貫量では二百七拾九匁が最高で最低は二百四十一匁である。最高貫量は反当にして八三貫七百匁で、一俵十六貫にみて五・二俵になるがこの坪刈りによると、玄米に換算すると良くて弐俵半で今と比較すると、各段の相違のあることはやむをいない。大正三年(一九一四)当時ですら反収は、三俵一斗位であった(「明治三十年「諸達綴」久野又区長」池澤正喜所蔵)
郡制施行による農業の指導
明治二三年(一八九〇)五月郡制が発布されたが、本県では、明治三十年(一八九七)より七月一日施行され那須郡では大田原に郡役所が置かれた。
そして大正十二年(一九二三)三月三十一日をもって廃止となった。然し県の下部組織の機関として、大正十五年(一九二六)七月まで置かれこゝに郡役所の廃止となった。郡が自治体として活動したのは二六年に及んだ。産業方面においては、明治三十二年(一八九九)他郡に率先して農事巡回教師を置き、農事の指導奨励を行い、同三九年(一九〇六)より本郡の特産物たる葉煙草の改良増産を図って、煙草巡回教師を置き、同年四十二年(一九〇九)より蚕業教師を置いてその指導奨励を行い、明治三十五年(一九〇二)より産馬組合に補助費を交付して馬匹の改良を助成した。郡役所の郡産業振興に寄与する面が大きかった。(蓮実長氏著「那須郡誌」による)
郡内の町村長会議で郡長が訓示したうち、農業関係の主なるものを轉載する
大正三年(一九一四)二月十三日、東北地方大正二年の、米作凶荒に対して地形上本郡は関連性があるため、栽培上の技術的指導が示されている。東北地方大正二年米作ノ凶荒ニ対シ本月六日主務大臣ヨリ稲作栽培ニ関スル訓令アリタリ惟フニ本郡ハ東北ニ接近シ地勢相類スル地方尠ナカラス而シテ東北地方ノ凶作ノ原因単ニ天候ノ異変ニヨルノミニアラスシテ其甚シキヲ況セルハ栽培上注意ノ足ラサルニ職由スルモノヽ如シ依テ本年ハ之ニ鑑ミ左記事項ニ対シテハ今ヨリシテ當業者ニ注意ヲ加ヘ災禍ヲ未然ニ防止スルニ努力メレタシ
記
一、可成早中生ヲ栽培スルコト
二、播種及挿秧ノ時期ヲ可及的早クスルコト
三、稲苗ハ可成太ク強硬ナルモノヲ作ルコト
四、本田ニ於テモ可及的稲ノ生育ヲ促進スル方法ヲ講スルコト
五、本田ノ追肥ハ避クルヲ但シ稲ノ生育ノ状況ニヨリ追肥ノ必要アル場合ハ可成早クスルコト
以上
大正十三年(一九二四)一月十九日、農業労力の節減を図るため、補助金を交付農業農機具を、購入することをすゝめている。
一、優良農具購入奨勵ノ件
優良農具ヲ購入シ農業勞力ノ節約ヲ回ルハ最モ緊要ナルモノニシテ本縣ニ於テハ従来是ノ購入ニ對シテハ勸業資金ノ融通ヲ計リ来リタルヲ来年度ヨリハ更ニ相當補助金ヲ交付シ奨勵ヲナサムトスルヤニ付一層ノ勸奨ヲ望ム
大正十三年(一九二四)九月十二日、本県の小作争議は大正八年(一九一九)下都賀郡吹上村で、畑地の小作料について紛争が起きただけで、他は平穏であったが、大正十年(一九二一)の不作のため、足利市を中心として附近各村に、小作料軽減の運動が起きた。那須郡では、大正十年(一九二一)十二月十五日親園村で水稲三割余の、減収で相当な値下げを小作人が要求したが未解決に終った。このような情勢に、対応して特に稀有の旱魃のため争議の、起き易い姿がみられ争議の予防解決、地主、小作者の協調を要望したものである。
一、地主小作人ニ関スル件
地主小作者間ノ協調偕和ニ関シテハ各位平素ノ誘導ト當事者ノ理解トニ因リ幸ヒ親善ヲ保チツヽアリト雖近時一般思想ノ動搖ニ伴ヒ動モスレハ両者間ニ紛議ヲ禳成スルナキヤヲ保セス本年ハ稀有旱魃ノ為メ植付不能田反潅漑不充分ニヨリ収獲減少セルモノ尠ナカラサルモノアリ従テ本秋冬作取引期ニ至リ争議ノ発生ヲ見ル虞ナキニアラサルヲ以テ宜シク各般ノ事情ニ顧ミ常ニ本問題ニ留意シ争議ノ豫防解決ニ備ヘ両者ヲシテ協調能ク其堵ニ安ゼシムル様努力セラレムニトヲ望ム
大正十四年(一九二五)一月八日
煙草は、換金作物として、本郡の最も重要な作物であるが、前年の干魃の害により煙草作の、減反の傾向がみられるのは、遺憾なことで煙草の賠償金が改正され、価格の引上げをみておるので、一層の奨励を望でいる。
一、煙草耕作ニ関スル件
煙草作ハ本郡農産物中最モ重要ナルモノタルヲ以テ之レカ改善發達ヲ計ルハ最モ肝要ナルモノトス然ルニ往々前年ニ於ケル干魃ノ害ト賠償價格ノ低廉ヲ託チ動モスレバ煙草作ノ減少ヲナスモノナキヤヲ保セズ斯ノ如キハ堅實ヲ旨トスル農業經營上其ノ當ヲ得サルノ甚ダシキモノト謂ハサルヘカラズ偶々大正十四年産葉煙草賠償金ハ十二月二十七日大藏省告示第二百五号ヲ以テ改正價格ノ引上ヲ見タル次第ニ付一層ノ奨励ニ努メラレムコトヲ望ム
大正十四年(一九二七)六月十八日
旱害により農民は困たため、農工銀行で救済資金の貸出しについての指示である
一、旱害救済資金ニ関スル件
早害救済資金ハ目下農工銀行ニ於テ貸出方取扱中ニ付不日決定融通セラル筈ナリ本件ニ付テハ借入費途ノ確守ト産業組合ノ借入ニ対スル貸出利率(組合員ニ貸付ヲナス場合ニハ組合ノ貸出利率ハ年五分四厘トシ調査費ヲ徴収スルコトヲ得ザルモノトス)並ニ資金償還期限ノ嚴守ニ付テハ特ニ周到ノ注意ヲ与ヘラレ本資金ノ目的ニ副メ様配慮セラレムコトヲ望ム
大正十五年(一九二六)一月十六日
町村、農会、諸団体連絡、協調を図かり、現在の農村の疲弊を救済するため、その振興に努力されること望むというのである。
一農村経済の現状ハ依然トシテ疲弊ノ極ニアリ之レガ恢復ニ関シテハ毎ニ御考慮セラルル所ナルモ将来一層ノ施設経営ニ努ムルト共
二町村農会其他各種団体ニ連絡協調ヲ保チ農村振興ニ特ニ努力セラレルコトヲ望ム郡長からの通達により田稗の抜取りが指示されている。
郡会農第壱号
田稗抜取期間左ノ通リ相定ム各耕作者ハ該期間ニ於テ之抜取ラレ実行スベシ
大正三年五月十一日
那須郡長 谷誠之
記
一苗代時期 五月十五日ヨリ六月十五日マデ
一本田期間 八月十日 ヨリ九月三十日マデ
これは川西町長あての通牒である。川西町役場は各区長宛に通知し、一般農家の周知徹底を図っている。
なお那須郡誌の一節を引用するが「郡の機関誌」として、大正三年(一九一四)五月より(初号発刊)年四回、「那須郡時報」を発行し、郡内の自治、教育、産業、衛生その他の事項を集録して、毎号(千部を各町村に配付し、これを各戸に回覧せしむることとした(郡長谷誠之時代)。これは当時においては、極めて異数のことであって、頗る世人の注意を惹いた。
・農村不況の深刻化に伴い農家の負債がぼう大化されたため、負債整理組合については、政府はこれに必要な資金を大蔵省の預金部から、低利長期で融通し道府県と政府が、その損失を補償することになった(県史より)
・政府は小作農の自作化をはかり、あるいは自作農の小作農転落を防止する目的で、自作農創設維持事業を実施し、道府県に長期低利資金(貸付利率四分八厘、(そのうち一分三厘は国庫による利子補給、一年据置、二十四元利均等償還)道府県は年利三分五厘以内を以て市町村、産業組合を経由して転貸する仕組をとった。その後拡充改善が加えられ昭和十二年まで続き、昭和十三年(一九三八)四月農地調整法によって本事業は法制化された(県史より)
本町では、自作農維持事業は、昭和十三年(一九三八)頃から相当利用されたが、負債整理組合も共に第二次大戦前には、全く整理され自作農が維持されたことは、その目的が達成されたのであった。