6 農地改革

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 昭和十三年(一九三八)四月二日、農地調整法の施行によって、各市町村に農地委員会が設置された。そして自作農の創設維持、農地の調整等を進めた。戦後同二十年(一九四五)十二月二十九日、農地調整法が改正され、同二十一年(一九四六)二月一日施行されたこの改正は、第一次農地改革であった。当時の幣原内閣が「農地制変改革要綱」を基本とする、農地改革法案を昭和二十年(一九四五)十二月四日衆議院に提出された。同年十二月九日、連合軍総司令部から、「日本帝国政府が民主主義に拠る諸傾向の復活及強化を阻む経済上の障碍を除去し、人権尊重を確立し、久しきに亘る封建制度の重圧の下に農奴の境遇に沈滞し来った日本農民の経済上の束縛を根絶する目的を以て、日本農民大衆が労働の成果を享受する機会を均等化するに有効なる措置を講ずることをこゝに同政府に指令する」という農地解放の指令が発せられ、当時地主色の濃い議会においては、農地調整法の改正に困難を来していたが、改正成立が促進され第一次農地改革となったのである。これは、日本の民主化をはかるためには、地主制の根絶にあるという観点から、連合司令部は、第一次農地改革に強い不満を示しこれを承認しなかった。当時、日本の農地改革は国際的な問題となり、日本政府が自力で農地改革を徹底させることの、不可能性をみとおしたマッカーサー元帥は、この問題を対日理事会に付託した。英国案を骨子とする対日理事会の改革案は、「農地改革覚書」として昭和二十一年(一九四六)六月、連合国司令部より勧告の形で政府に渡された。この勧告が出されて一ケ月後、ときの吉田内閣において、「農地制度改革の徹底に関する措置要綱」が閣議で決定され、この要綱に基づいて「自作農特別措置法」が法制化され、連合軍の承認を得て、同年十月議会を通過し公布された。これが第二次農地改革である。従って農地改革はこの法律によって実施され、第一次農地改革は法律だけで、実施されなかった。
 本改革の主な内容は次のとおりである。
一、不在地主の所有するすべての小作地、在村地主の所有する小作地で内地平均一町歩(栃木県一・三町歩、旧黒羽町一町歩、川西町、一町五反歩、須賀川村、七反歩、両郷村、一町四反歩)北海道では四町歩をこえる分、及び自作地と所有地合計が内地で平均(栃木県三十九町歩(旧黒羽町、四町歩、川西町四十五町歩、須賀川村、三十七町歩)両郷村四十四町歩)北海道では十二歩をこえる分の小作地は市町村農地委員会の計画に従って政府が直接買収し、これを原則として、現在の小作農に売り渡して、建全な自作農を創設する。

二、第一次農地改革発表以後に行われた地主の不当な土地取り上げ及び売り逃げ等はこれを認めず、農地の買収計画の樹立は原則として昭和二十年十一月二十三日現在の事実に基づいて行う。

三、農地ばかりでなく、宅地、建物、農業施設、採草地及び牧野も解放の対象となる。

 以上のような内容のもとに、黒羽町の旧四か町村においても強力に、無血革命といわれた農地改革が進められ、昭和二十一年(一九四六)十二月農地委員の選挙が行われた。地主代表三、自作農代表二、小作農代表五、計一〇名の委員の構成で、昭和二十二年(一九四七)三月には、各町村共事務局が整備され、こゝに農地委員会の画期的な大事業が開始された。農地の買収、売渡状況の実績は次のとおりである。旧町村の買収総面積は、八九〇町四反五畝八歩で昭和三十一年(一九五六)一月一日合併後の、農地総面積が、一、七六四町八畝歩でその比率は五六・八%である。いかに小作地が多かったかがわかる。このような徹底した農地改革であったため、小粉争が堪えず発生し、農地委員会はこの調停に多忙を極め恰も裁判所の観を呈した。然し比較的平穏裡にすゝみ、独立自営の自作農となり、安んじて農業経営に精進する道が開かれ、農業生産力の増大と農業者生活の安定が約束されたのである。農地の買収、売渡という画期的な大事業は、大体昭和二十四年(一九四九)頃には完了し、旧四ケ町村は、県下でも発記事務は最も早く完了し、そのため黒羽登記所は当時の法務総裁大橋武夫より、表彰の栄誉を得た。
 しかし農地改革の輝かしい反面、余りにも急激な変革であったため、被農地買収者(地主)層に与えた影響は、頗る大きく生活、経済状況と心理的に対する動揺は勿論であった。農地改革に農地被買収者の貢献と協力を多とし、政府は世論の動向を勘案して、これらの人々に対する報償として「農地被買収者に対する給付金の支給に関する法律」が公布され、昭和四十年(一九六五)この法律により、黒羽町で約一億五千万円が給付された。これによって農地改革のすべての施策は終了をみたのである。