7 農業機関の整備

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 農業会は新しい戦後の担い手としては、不適当であると内外の要望もあり、特に連合軍総司令官マッカーサーの「農民解放に関する連合軍総司令部覚書」が、昭和二十年(一九四五)十二月九日に指令され、農村団体に対する政府の権力統制の、撤廃を目的としたものであった。これにより、農地改革が促進され、同二十二年(一九四七)十二月十五日農業協同組合法の施行となった。本町では、同二十三年(一九四八)四月から八月の間に旧町村は、農業会を解散して農民の団体としての、農業者主体の民主的な団体として、新しく、農業協同組合が成立し発足したのである。
 続いて昭和二十二年(一九四七)十二月五日、法律第一八五号農業災害補償法が施行され、同二十三年(一九四八)全国に農業共済組合が設立され、本町でも同年の六月頃には、各旧町村ともその誕生をみたのである。これにより農業保険制度、家畜保険制度が確立し、農業者の不慮の災害による損害を補償し、その経営の安定と生産力の発展に資する面が、保証されることになった。
黒羽町の買収売渡の実績
黒羽町農業委員会調
区分黒羽町川西町須賀川村西郷村
農地買収面積231町2反8セ10歩437町7反5セ26歩104町9反3セ21歩116町4反7セ11歩
同上対価1,098,767,27円2,322,207,17円515,064,57円1,063,201,84円
売渡面積230町2反1セ20歩436町5反4セ17歩512,316,97円116町4反7セ11歩
同上対価1,075,017,38円2,319,440,00円91町5反7セ歩1,063,201,84円
牧野(採草放牧地)95,500,56円5町2反7セ29歩
91町5反7セ歩8,078,94円
95,500,56円8,078,94円
7,141,87坪3,914,41坪
宅地54坪39,540,28坪2,1008,95円13,151,96円
12,613円115,080,67円10坪3,914,71坪
54坪39,540,28坪2,1008,95円13,151,96円
12,613円115,080,67円10坪2,44,5坪
建物1軒22,784,00円10,148,50円
3,100円10棟244,5坪
1軒22,784,00円10,148,50円
115,080,67円100,148,50円
農業用施設その他7反7セ16歩原野山林198,373石・木6
73,881,15円600円
198,337石6
7,388,115円600円
注.買収面積と売渡面積の差は1反歩以上の耕作者が売渡の対象であるため1反歩未満の耕作者は国有地を借りうけた。

 昭和二十六年(一九五一)三月三十一日、法律八八号によって「農業委員会等に関する法律」が公布され、農業委員会が創設された。これは農地改革を行った農地委員会と、終戦直後食糧の極端な窮乏に対処し、主に主食の供出に貢献した食糧確保臨時措置法(昭和二十三年〈一九四八〉七月)によって、各市町村に設置された農業調整委員会、それに昭和二十三年(一九四八)農業改良助成法に基づき、県知事の諮問機関として県条例によって制定された。これは農業改良委員会である。市町村ブロック毎に設置された。昭和二十四年(一九四九)四月旧黒羽町、須賀村、両郷村、伊王野村のブロックに農業改良普及所が設置され、事務所は、旧黒羽町におかれた。旧川西町は大田原ブロックに属していた。そして各町村より農業改良委員が選任され、農業改良委員会が組織され、農業改良普及事務所の改良事業推進についての調査審議を行い、その意見を具申した。昭和三十年(一九五五)二月町村合併により旧伊王野村は那須町に、旧川西町は本町ブロックに変り、一町村一普及所、一町村一農業改良委員会となった。この三委員会が昭和二十六年(一九五一)に統合され農業委員会の設立となったのである。本町では町村合併後昭和三十一年(一九五六)やはり、合併され一町一委員会となった。この農業委員会は地方自治体の補助的行政機関で、現在(昭和五十六年(一九八一)以後)執行機関として、法令農地法(昭和二十七年〈一九五二〉法律第二二九号)に基づき、自作農創設維持農地等の利用関係の調整、交換分合などの事項を処理するとともに、前記に関する事務、さらに地域農業振興のための計画樹立、実施の業務など(「従前は主要食糧の供出割当事務を含んでいたが、昭和三十年(一九五五)以後供米制度が予約制度に、」切りかえられ、この面の機能はなくなった)を行う場合と、諮問機関として以上の如き地域の農業問題について、意見を公表し、他の行政庁に建議し、またその諮問に応じて答申することができる。このように委員会は、国あるいは地方公共団体の重要な農政上の事務に参与し担当する機関ではあるが、一方農民の代表機関として、農民が自立的に運営することができる。また委員は、公選制、一部委員の市町村長の選任制がとられ、これによって委員会が構成されている。このようにして本町の基幹的な農業団体の基盤が、確立し農村振興への道がひらかれたのである。(「農地改革」と「農業機関の整備」については烏山町史、湯津村誌を参考とする)