明治四十二年(一九〇九)十二月二十五日、大田原に出張し旅館に泊ったところ、雲岩寺部落つづきの加良美上官林百二十町の払下になることを察知し、村の基本林として村の振興に役立てようと考えて、独断で払下申請書を提出した。払下に関しては、時の那須郡長や一部村民の反対もあったが、払下に成功して村の基本財産とすることができた。
造林事業は明治四十四年(一九一一)より開始し、大正四年(一九一五)で終了したが、実に六十七万本を植栽した。当時、村財政は悪く、役場職員の給料も月々支給できない程で、村民も腰弁当で六―八粁の山道を基本林まで、地拵・植付・下刈にとかよった。子孫の幸福を希望の的にして、村長を中心として村民一同が一致団結して育成した山林は、その成果を終戦後にいたり発揮したのであった。
イ、旧須賀川村役場の新築
ロ、須佐木・須賀川・川上小学校の増改築
ハ、須賀川中学校の新築
二、須賀川中学校のスクールバス購入
ホ、教員官舎の新築(六戸)
へ、消防自動車の購入(十一台)
ト、地区公民館の新築(十一棟)
チ、須賀川診療所の維持
リ、須賀川教育振興会の奨学資金の支給
ロ、須佐木・須賀川・川上小学校の増改築
ハ、須賀川中学校の新築
二、須賀川中学校のスクールバス購入
ホ、教員官舎の新築(六戸)
へ、消防自動車の購入(十一台)
ト、地区公民館の新築(十一棟)
チ、須賀川診療所の維持
リ、須賀川教育振興会の奨学資金の支給
右のような大事業が、村民より壱円の負担なしに、基本林よりの伐採収入によって賄なわれた。本問題は、基本林育成だけでなく、地域住民の造林熱をたかめたことに意義があると思われる。翁は、昭和三十年七月、八十九歳で他界されたが、胸像が須賀川中学校玄関脇に建っている。
(注1)栃木県木材史
(注2)栃木県史史料近現代五
(注2)栃木県史史料近現代五