(4)植竹三右衛門

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大正期の材価の高騰或は下落によって、世情が一喜一憂している時に、将来の林業に希望を持って、植竹三右衛門翁は八溝林業の発展に努力されたのであった。
 大正の初期、八溝山一帯は広葉樹の原生林で覆われ、馬車道は雲岩寺地区までしか開設されず、それより奥地の川上、南方地区への物資輸送は牛馬の背を利用し、八溝山麓には住む人もなかった。翁は、大正二年六月、下野造林株式会社を設立して原生林五百四十五町を入手し、大正四年(一九一五)に造林を開始し、十二年の歳月を費して大正十五年(一九二六)に完了した。しかし、苗木の輸送、労務者の募集、子弟の教育等、事業完了までの苦労は大変であった。

八溝原生林(南方地内)

 (イ) 苗木輸送
 苗木は、水戸市北方の管谷より鉄道で水戸・小山・黒田原と廻送され、黒田原より馬車に積み替えて、伊王野、棚橋、現地へと輸送された。
 (ロ) 其の他
 造林事業も長期にわたるため、労務者住宅を敷地内に建て、その子弟の教育のために敷地内に川上小学校の分教場も設けた。翁は、大正五年勲四等に叙せられ、昭和八年(一九三三)七月六日従六位に叙せられたが、同日八十歳で永眠された。