(4)本町の木材業

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本町の林業が発展した理由には、
(1)全町の大半の林地の地質が中古生層である。
(2)大需要地江戸への輸送路として、町内を那珂川が流れている
(3)藩政時代より現代にかけて、よい林政が敷かれていた。と云われるが、更に町内の木材業者が進歩的であったためといわれる。
 次に町内の木材業者の変遷を木材業組合の経緯より眺めると
那珂川筋板貫仲間 藩政時代、那珂川沿岸の業者は「那珂川筋板貫仲間」を結成していたが、本町の木材商はこの仲間であった。写真は、当時の仲間の「板貫運賃仮定」である。(内容は略す)

(黒羽向町阿久津家文書)


板貫運賃仮定


筏乗及荷馬車賃額

黒羽組材木商組合 明治十九年(一八八六)二月十四日、本町の木材業者は、藩政時代よりの仲間と別れ、新に「黒羽組材木商組合」を結成して独立した。写真は当時の協定書である。

(黒羽町向町阿久津家文書)

歴代行司役
当組合は組合長をおかずに、世話人として行司二名を選挙した。
 初代行司 飯島元兵衛 明治十九年(一八八六)より
 同    斉藤半之助 同
 二代行司 益子熊次郎 明治廿五年より
 同    阿久津浜太郎 同
 三代行司 飯島元兵衛 明治三十年頃より
 同    阿久津浜太郎 同
 同    益子熊次郎 同
 四代行司 飯島元兵衛 明治三十六年(一九〇四)より
 同    斉藤酉之助 同
 設立当初、組合員は次の十七名であった。(一部他町村も含む)
 黒羽町  菊池長三郎
 同    飯島元兵衛
 同    斉藤半之助
 同    植竹三四郎
 同    山口利三郎
 同    阿久津浜二郎
 須賀川  佐藤承太郎
 同    屋代彦右衛門
 同    佐藤左藤次
 黒羽町  塚佐屋伝兵衛
 同    鈴木貞助
 同    国井善司
 矢倉   大金源九郎
 鍛治内  笹沼保兵衛
 須賀川  須藤歌之助
 大山田  堀井忠左衛門
 古久根  石井虎之助
那須北部木材同業組合 大正九年(一九二〇)黒磯矢板まで含んで、那須北部木材同業組合が結成されて、本町の斉藤酉之助が組合長に選任されたが、十一年解散した。明治末期より、大正初期にかけての資料が乏しく、詳細が不明である。
 昭和二年四月(一九二七)、「黒羽木材同業組合」を結成し、組合長に飯島徳之助が選任された。昭和前期、内地材は下落し、樺太材・南洋材・米材が安値で山国の生産地まで進出して来た。
 昭和八年(一九三三)頃、前記の組合は「黒羽木材商組合」と改称し、昭和十八年(一九四三)まで継続した。この時、すでに戦争状態にあったため、木材は重要なる軍需物資で、生産も間にあわなくなってきた。

木材同業組合


黒羽木材商組合標札

栃木県木材株式会社川西支店 昭和十六年(一九四一)六月一日、「木材統制法」が公布されて個人企業が出来なくなった。昭和十七年三月、栃木県木材株式会社(県木社)設立と共に川西支店が設けられ、本町の木材業者はその傘下に入った。翌十八年十二月、栃木県地方木材株式会社(地木社)と改称され、川西支店も川内出張所と改称され終戦にいたった。この時代の木材業界は、軍需・官需用木材の生産出荷に追われたが、伐採用の斧、鋸、トラックの燃料、地下足袋、作業衣にいたるまで陸海空の管理下にあったので、作業の困難は今日の想像外であった。
 終戦によって地木社が解散したので、「黒羽木材株式会社」が設立され、社長に飯島善衛が就任し、地木社時代の手持資材の処分にあたり、二十二年九月頃解散した。
黒羽木材工業株式会社 前記の組合の解散にともなって、代って「黒羽木材工業株式会社」が設立され、飯島善衛が引きつゞき社長に就任した。その後、鈴木金十郎、伊藤政夫、益子善夫の三人によって運営された。
黒羽木材業組合 昭和二十三年、「黒羽木材業組合」を結成し、組合長に島田藤五郎を選任したが、翌二十四年頃解散した。
黒羽地区木材協議会 前組合の解散により、新らたに「黒羽地区木材協議会」が結成されて今日に及んでいる。歴代協議会長は左の通りである。
 初代会長 鈴木金十郎 昭和廿四(一九四九)~廿七年
 二代会長 伊藤虎雄  同 廿七~卅七年
 三代会長 鈴木重幸  同 卅七~四十二年
 四代会長 斉藤三郎  同 四十三~五十一年
 五代会長 飯島修   同 五十一(一九七六)~現在
 会員総数は、現在三十一名である。
 昭和三十三年(一九五八)四月一日、「木材業及製材業の登録制」が実施され、本県に於ては次のような登録済票が交付された。

木材業者登録済票