○創業とその経営

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 黒羽では既に文化年間(一八一七年ころ)前田愛宕山麓の岡野台で、瀬戸焼が行なわれていたが、この伝統をうけて、明治三十九年(一九〇六)五月、黒羽町の小室善之助外十一名が発起人となり、黒羽陶器製造株式会社を創立し、かなめ焼を始めた。
 その定款によると資本金壱万円(二百株、一株五拾円。実際は五百株で発足したとみられる)で、各種の陶器製造と販売をもって営業の目的とした。製陶所は前田地内(現在、飯縄神社境内)に同年五月工を起し、十二月三日窯焼を始めた。第一回窯出しの花瓶(堀之内、高梨義彦氏蔵)に創業者等の氏名が連記してある。それによると「創業者高梨真六・萩原健一郎・技師加藤健太郎・常務員小室善之助・三森初太郎・蓮実啓之進」とある。創業年度の見積り経費は次のようであった。
一、収入八千円、内訳、 六千円 弐千円 株金焼成品上益金
一、支出六千百四拾円
 内訳
  七百弐拾円、六千円に対し株金利子一、二配当
  千百四拾円純益金

株券


初焼花瓶(表)


初焼花瓶(裏)

 なお二年目には十二回焼成とみて売上高を六千八百円見込んでいたようである。
 板谷波山の指導
 かなめ焼は形状と意匠をこらし、色あいに独特の美しさがあり、雅致溢れる陶器で芸術性が高い。また日用雑器が多かったので常用されたことと、制作期間が短かかったので現在は稀少価値がある。町内には愛蔵家が多く珍重されている。
 かなめ焼の製作にあたって、益子町の陶器学校長萩原健一郎を顧問としてその指導を受けたが、特に陶芸家板谷波山の指導を受けたことは特筆される。
 波山〈明治五年(一八七二)~昭和三十八年(一九六三)〉は茨城県下館市に生まれ、明治二十七年(一八九四)東京美術学校彫刻科卒業後、東京高等工業学校で教え、明治三十六年(一九〇三)から東京田端で製陶を始めた。波山の作品は端正な姿のマットによる白磁と青磁、それに潤いのある彩磁と、さらにすぐれた薄肉の彫刻文様で知られ、日本窯業の第一人者で、芸術会々員、昭和二十八年(一九五三)に文化勲章を受彰している。かなめ焼の作風に大きな影響を与えた。