窯焼きの燃料(松薪半坪二円七拾五銭)と石灰が使用された。焼成品には、花瓶・抹茶碗・湯呑・瓶子・急須徳利・皿・灰皿・菓子器・盃・香入れ等多種多彩である。硬質堅牢で耐火の特性を有し、形状意匠に趣向をこらし、模様は線刻や浮き彫りがなされた。また日用雑器は実用と衛生を考慮して製作された。
また工業用として染色器も製作され、前記資料に、足利工業学校伊勢崎工業学校よりビーカー代が納入された記事がある。
次に焼成賃金を「大正六年の給料表」(高梨家所蔵)より摘記してみよう。「おかめ焼千九百九十一個(一個七厘八毛)拾参円九十三銭七厘」達摩灰皿三十二個(一個四銭五厘ノ割リ)五円六十一銭」・「達摩香入、百四拾九個(二銭五厘)三円七十二銭五厘、「茄子柱掛二百五個(三十銭)六円拾五銭。」その他蓮灰皿などの記事もある。
かなめ焼の販路は小売(日計表に小売リ十銭、十三銭の記事あり)記念品・返礼用品のほか、価格を統一し観光地の土産物として捌かれた。陶器製造所大正三年(一九一四)八月の日計表に「那須小松屋より五拾円、大丸温泉より拾参円九十六銭、塩原売店より百円入金」などの記事があることでもわかる。
また展覧会・博覧会会場費弐拾五円を橋本店に送った記述もある。宣伝にも力を入れたとみられ、半紙を一〼店より購入し広告を印刷したとみえ同年六月に広告印刷料二千枚代一円二十銭を払っている。現にその広告紙を保存しているかなめ焼愛蔵者がいる。黒羽向町頼高正郎氏がそれである。
陶業としてのかなめ焼の商況が最も活況を呈していたのは、大正年間とみられる。しかし株主たちが強力な援助を惜しまなかったが、その経営は容易でなかったようである。