陶芸家福原達朗(佐久山で作陶、県文化功労者)は、下野新聞主土曜随想などのなかで「板谷波山のかなめ焼追憶」を次のように紹介している。板谷先生は室井陳四郎町長などの熱意をうけて大正二年(一九一三)から三年間隔月毎に黒羽に来て指導したという。(板谷波山先生宛の郵税の支出もある。)
黒羽の陶土も活かしながら陶土を吟味し、釉にも工夫をこらし、人員も加藤新吉の外一名彫りの出来る老職人を一名(岡村一鳳)、将来のために土地の十五-六歳の少年四名だけに整理し、流れ者が造った四室の登り窯を内側直径六戸の窯に造り直し中央に棚を組み、その周囲に鉢を重ねて、千数百点焼成できるようにした。その頃資本金も五万円位に増額され、県産業課から窯業振興の補助金七拾五万もうけ、遠藤源吉属の助言も仰いだりした。関係者の努力で経営の合理化も進んだが、経営実態は容易でなかったという。試みに日計表(大正三年〈一九一四〉四月三日~八月十九日)を集計してみると、支出金が千五百円余であるのに対し、焼成品の販売高の入金は僅か五百円に過ぎない。これは限られた短期間だけの資料で全貌をみることは出来ないとしても、ほゞ推測できる。
黒羽陶器製造株式会社はその定款で「存立時期は設立の日より満二十ケ年とす。但し、満期の際は株主総会の決議により事業を継続することあるべし」と定めていたが、欧州大戦後の経済不況の余波を大きく受けて、会社は大正十四年(一九二五)郷党の人々から愛惜されながら解散した。(『ふるさと雑記』による)