明治十六年(一八八三)~二十二年(一八八九)松方デフレの激化期から回復期にあたるが、明治二十三年(一八九〇)再び不況期に突入する。これは全国的な姿であり、本県本町も勿論影響をうけている。(松方デフレとは、時の大蔵卿であった松方正義の行った施策に、日銀公定歩合明治十六年(一八八三)一年間に四厘の引下げを断行したことである。
国立銀行条例を改正して、各国立銀行発行の紙幣の消却を命じた。)このため一時混乱が生じたが、この思い切った財政改革により、明治新政府の基礎が確立されたといわれている。
当時の本町の、経済状況が県史に次のようにとりあげてある。
那須郡黒羽町農家概況
農家之概況
農家の景況は依然米穀の低廉に困難し居り候得共、一般平穏にして且当地方産なる裏莚は気配宜しく、薪炭木の如きは益々上向なり、金融等は運動なく目下沈着の有様なり
これは明治二十二年(一八八九)県商工報告によるものである。同年はデフレの回復期にあったものゝ、米穀は安く、薪炭木等は益々上向にありと述べられ、金融は沈着状態であったようで、総体的にはそれ程好況とはいい得ない、停帯気味であったようである。
現在でもそのように、本町の商業は農業の盛衰と、不可分の関係にあり、農業の豊凶によって左右されるといっても過言ではない。明治・大正・昭和の町村合併後約十ヶ年位は、八溝林業地であるだけに、木材業、薪炭業が盛であった。特に大正七年(一九一八)四月東野鉄道が開通され、木材薪炭輸送が便利になり益々発展し、昭和十年前後(一九三五)、町村合併後トラック等の普及により昭和四十年頃迄(一九六五)がその最盛期であった。
昭和五十四年(一九七九)六月一日現在をもって実施された商業統計調査における本町の状勢をみると、商店数が四四七店、従業者が一千百人、年間販売額が七十二億九千五百四十八万円で、前回調査昭和五十一年(一九七六)の結果と比較してみると、商店数が十六店、三・五%の減にもかゝわらず、従業者数が四十六人、四・四%増加し、年間販売額は十二億九千百五十四万円、二十一、五%増とそれぞれ増加した。
町村合併後の昭和三十年(一九五五)当時は、商店数が三百八であったのが昭和四十八年(一九七三)の統計では、昭和四十一年(一九六六)現在で四百十一で昭和四十七年(一九七二)には四百十七で、この期間は大体安定している。昭和五十四年(一九七九)の商業統計では、四百四十七で合併当初より百三十九(四十四%)の増である。