ところで慶応三年(一八六七)の大政奉還、つづく戊辰戦争の過程で、明治政府は誕生をみたのだが、明治になっても、初期の頃には当地方では陸上輸送手段の変化がみられず、物資の輸送は従前のように主に水運に頼らざるをえなかった。
黒羽の河岸・船問屋 |
河岸 | 明治4年 | 明治13年 | 明治18年 |
黒羽 | 3 | 3 | 2 |
黒羽田町 | 1 | 1 | |
片田 | 1 | ||
矢倉 | 1 |
〈数字は河岸の船問屋数〉(栃木の水路) |
50石以下の廻船 |
年代 | 旧黒羽町 | 旧川西町 | 計 |
明治26年 | 6 | 0 | 6 |
明治33年 | 7 | 0 | 7 |
明治40年 | 0 | 0 | 0 |
那須郡統計書 |
廻漕業者数 |
年代 | 旧黒羽町 | 旧川西町 | 計 |
明治26年 | 2 | 1 | 3 |
明治29年 | 3 | 3 | 6 |
明治40年 | 2 | 2 |
那須郡統計書 |
明治初期の黒羽河岸について調査した阿久津正二氏によると、黒羽河岸は、上河岸と下河岸の二つからできており、上・下両河岸にはそれぞれ河岸事務所の建物や酒蔵・荷小屋があり、下河岸には明治初め、会津蔵や高田蔵が残され、付近は河岸町らしく、旅客や荷物の運般に関係する人たちの住居・旅館・船宿・馬宿・飲食店の家屋が町並を形づくっていたという。
明治期における黒羽の河岸・問屋・廻漕船の変遷をみてみる。
明治四年(一八七一)の「黒羽藩県駅逓景況」によれば黒羽町には河岸問屋は三軒あり、それらは常時五十艘の艀舶を用意し、荷物の運搬に当り、船は毎日出船し、年間その数は千五百艘を数えたと記されている。つぎに「栃木県治要提要」は、明治十三年(一八八〇)に黒羽河岸の船問屋は三軒、小船(五間以下)五十一艘、黒羽田町河岸は問屋一軒、小船四艘とあり、矢倉は小船九艘のみで河岸名は記載されていない。
明治十八年(一八八五年)の状況を那珂川筋廻漕業規約」でみれば、黒羽河岸問屋は二軒に減じ、新たに片田に河岸が登場している。
黒羽河岸の川船は天明期三十六艘、天保元年(一八三〇)が五十四艘、安政期が三十九艘といわれているが、それらと比較すると、明治十年代(一八七七~八七)までは、船数は従前通りか、それ以上である。河岸は新らしく、田町、矢倉、片田が出現してきた。
このことは、黒羽付近には従来通りの輸送荷物量があったということと、江戸時代には、河岸の船問屋が株仲間を形成し、新河岸、新問屋の設立を阻止してきたのに対し、明治政府は、株仲間の人数増減は勝手次第であるという方針で、新鑑礼を下付したので、その支配力が弱体化し、新たな河岸の設立になったためであると思われる。
明治十九年(一八八六)上野、黒磯間に日本鉄道が開通するようになると、那珂川の河岸は大きな影響をうけることとなった。明治二十一年(一八八八)一月黒羽町の勧業委員、田代為茂が県への報告の中で「米価は不進、煙草価は騰起すれども近郷作人の手にあるは稀にして、商人の売買のみ多く、其の上鉄道黒磯村へ通りし後は、都て諸荷物東京回しは追々減じ、只今は茨城県へのみ。概観するに河岸場は勿論、黒羽町商況は追々退廃の姿をあらわした。」と述べたように、それまで黒羽河岸を利用し東京に運ばれていた荷物が、その後鉄道で運ばれるようになり、黒羽河岸は急激に衰微の傾向をあらわしたのである。
明治二十年代の黒羽町の廻漕船、および、廻漕業者数を「那須郡統計書」によってみると、明治二十六年(一八九三)に五十石以下の廻船数は六艘、同三十三年(一九〇〇)には七艘に激減している。
明治十八年には、那珂川沿岸の黒羽、長倉間の廻漕業者二十六名が馬頭町に会合し、舟道修理などについて協議し、規約を決めているが、鉄道開通後の明治二十六年、黒羽町で例会を開いた時には、営業者に熱意がなく、出席者は少数で船路修繕の方法、資本金、その他廻漕業に関係する諸事項を討議、決定することができない状態になってしまった。このように北那須の物産輸送手段は、那珂川から鉄道へと移っていったが、なお細々ではあるが、依然として、那珂川が利用されたのは、船輸送や筏輸送の運賃が荷馬車や鉄道に比べて安かったためである。とくに茨城方面に、木材や木炭を輸送する場合は格段の安さであった。
「筏乗及荷馬車賃表」
一、板壱駄ニ付 黒羽ヨリ
賃金六銭 水戸ニ到ル
但港大貫行筏壱敷ニ付金三〇銭増
一、貫割壱駄ニ付 同所ヨリ
賃金五銭 水戸ニ到ル
一、角物壱駄ニ付 同所ヨリ
賃金四銭 同断ニ到ル
一、鴨居尺締壱本ニ付 同所ヨリ
賃金拾弐銭五厘 同断ニ到ル
但板筏壱敷ニ付藤代金壱円也
角物筏壱敷ニ付同代金七拾銭也
一、板壱駄ニ付 同所ヨリ
賃金拾弐銭 西那須野ニ到ル
一、同壱駄ニ付 同所ヨリ
賃金拾五銭 黒磯ニ到ル
右之通御取扱有之度候也
黒羽組材木商
明治三十七年二月 行司
明治四十年(一九〇七)になると、黒羽町の廻漕船数は姿を消し、僅かに艀魚船、小廻船が三十艘となり、廻漕業者も明治二十六年(一八九三)には三軒であったものが二軒に減じている。収入金額も那須郡統計書によると明治二十六年の二百八円が、明治四十年(一九〇七)には三十八銭となり、黒羽河岸の水運は明治末期には益々衰退の色を濃くした。
このように、細々と営業を続けていた黒羽河岸に対して、決定的ともいうべき影響を与えたのは、東野鉄道の開通である。東野鉄道が大正七年(一九一八)黒羽、西那須野間に開通するにおよび、今まで、那珂川を利用し輸送されていた品物は、その後東野及び国鉄で全国各地に輸送されることとなり、近世以来物資輸送に活躍した黒羽河岸はついに廃業に追い込まれることとなった。
黒羽河岸の廃業後を調査した阿久津正二氏によると、川船の船頭や筏師のなかには、那珂川下流や鬼怒川沿岸に仕事を求めて移住した者がいるという。また河岸付近の飲食店業者の中にも、鉄道沿線の黒磯などに転居した者がいるという。
つぎに明治以降における黒羽河岸より運送された物品についてみてみたい。
明治二年(一八六九)矢倉村の「村々御廻米払面付帳」(大金文書)によると、辰十一月七日より己正月十日までに玄米九百六十一俵が常陸の長倉河岸に送られている。黒羽河岸については、辛未貢米(明治四年の年貢米)が黒羽河岸より東京浅草の御蔵に三千四百七十六俵廻送されたが、その運賃は銀五十五貫六百二十二匁三分五厘、うち黒羽河岸より茨城の海老沢河岸まで水路二十七里の輸送料は百石につき銀一匁で海老沢まで銀二十一貫九百九十二匁三厘かかった。また大田原県は年貢米を鬼怒川の板戸河岸まで陸送し、それから鬼怒川筋により東京まで廻送することを例としていたが、この年には年貢米のうち三千四百七十七俵を運送料を節約するために黒羽河岸より廻送している。
明治十年(一八七七)「那珂川通り滝田河岸輸出表」(荒井家文書)によると、その年の二月に、白河の酒百四十五樽、及び黒羽の玄米六百五十俵、楮百七俵が、翌三月には、白河酒三百六十樽、黒羽米三百四俵が黒羽河岸を通して烏山に輸送されていることがわかる。
明治十七年(一八八四)の滝田河岸荷物扱い状況をみると、白米、煙草、梨、麦、玄米等、紙、醤酒、酢、塩引、油、種油、酒、焼酒等、薪、炭、板、機械油、鋳物、曲物、空樽、空箱、酒袋、塗物、傘、摺はん木、日用品等取扱い品は多様を示しているが、それらのうち、黒羽地方や、白河方面の産物が黒羽河岸を利用して他の地域に輸送され、非産物が下流から黒羽河岸に輸送されたに相違ない。
烏山方面から送られてきた記録としては、滝田河岸からの紙関係記録(荒井家文書)がある。それによると、堺屋五平が、六、七、八月に五包の紙荷を黒羽山口河岸を通し、小西幸之助に、佐野屋太平が植竹河岸を通し一包、明石屋新二郎に送っている。
しかし那珂川の上り船で輸送された荷物は下り荷に較べて少なかった。それは黒羽を中心とする当地方が、人口に乏しく、後背地に恵まれていなかったためである。上り荷は那珂湊方面から干鰯や、〆粕などの肥料用の海産物が中心であった。しかし水戸産の塩は茨城海岸の海が荒く、量が不十分であったため黒羽地方には入らず。鬼怒川の阿久津河岸方面から陸送されるのが例であった。黒羽に入る干魚は那珂川筋からくる場合には佐良土や広瀬で陸揚げされ、馬背で黒羽に輸送されたといわれている。
明治十三年(一八八〇)松方正義が大蔵卿に就任するや、インフーションを抑圧するために、緊縮政策が採用されたが、この過程で経済界は深刻な不況にみまわれた。当黒羽町においてもその影響は大きく、明治十九年一月の勧農二八号は「黒羽商況ハ十六年己米商振ハズ。第一物産タル煙草ノ価格ハ十五年ニ比スレバ三分一方下落ス。米価は十五年頃ニ比スレバ、漸ク騰起スト雖モ、其数僅少ニシテ他邦ニ輸出スル程ニアラズ。商業ノ要部ヲ占メタル回漕業ハ目下平均一日五艘出入位ニシテ、下リハ荷積スルモ、上リ空船多キノ姿ニシテ、木材ノ価格ハ非常ニ下落シ、筏ハ絶エテ無キガ如シ。」と報告している。明治十五年(一八八二)頃より数年間にわたり不景気が打続き、黒羽河岸からの出荷物は品種も量も減少をきたした。明治十九年、九月、および十二月の黒羽町の出荷物をみると、煙草、板材、木炭、柏皮であり、穀物においては僅少の米がみえるだけである。
明治十九年(一八八六)に東北本線(日本鉄道)が黒磯まで開通するようになると、今まで黒羽河岸を利用して運送された諸荷物の多くは、黒磯駅や那須駅(西那須野)を通して、東京方面に直送されたり、当地方の必要物資も鉄道を利用して運入されるようになってきた。明治二十一年(一八八八)の両駅の荷物取扱量は移出が五千二百万斤、移入が五百万斤で、その運送収入金額は六万一千円に達している。かくて河岸は危機的状況に追いこまれたが、茨城方面への物資、とくに材木、薪炭等はなんといっても運送費が割安であったので、細々ではあるが、依然として河岸を利用して輸送された。
明治十九年九月 |
(栃木県史) |
種類 | 上等 | 中等 | 下等 | |||
一円ニ付 | 出荷数 | 一円ニ付 | 出荷数 | 一円ニ付 | 出荷数 | |
米 | 一斗八升 | 一八石 | ||||
莨 | 三貫目 | 二、一〇〇貫目 | 四貫目 | 一、七〇〇貫目 | 五貫目目 | 九五〇貫目 |
杉板 | 四〇枚 | 一、七〇〇枚 | 五〇枚 | 三、二〇〇枚 | 六〇枚 | 一三、〇〇〇枚 |
松板 | 四〇枚 | 一、七〇〇枚 | 五〇枚 | 一、四〇〇枚 | 六〇枚 | 三二〇枚 |
杉角 | 尺〆二本 | 尺〆二二本 | ||||
炭 | 五〇貫目 | 一三〇貫目 | ||||
柏皮 | 六〇貫目 | 五、八〇〇貫目 |
明治十九年十二月 |
(栃木県史) |
種類 | 上等 | 中等 | 下等 | |||
一円ニ付 | 出荷数 | 一円ニ付 | 出荷数 | 一円ニ付 | 出荷数 | |
米 | 一斗九升 | 一二〇石 | 二斗二升 | 二斗四升 | ||
小麦 | 二斗五升 | |||||
莨 | 二〆目 | 八七〇〆目 | 二〆八〇〇目 | 一、五〇〇〆目 | 四〆目 | 八〇〇〆目 |
杉板 | 三八枚 | 一、三〇〇枚 | 四九枚 | 二、二〇〇枚 | 六〇枚 | 七、一〇〇枚 |
松板 | 三六枚 | 一、八〇〇枚 | 四五枚 | 一、二〇〇枚 | 五九枚 | 五〇〇枚 |
杉角 | 尺〆二本 | 一五〇本 | ||||
炭 | 四四貫目 | 四、二〇〇貫目 | 五〇貫目 | |||
柏皮 | 四五貫目 | 四、六〇〇貫目 |
板壱駄の運送賃金は明治三十七年(一九〇四)黒羽、水戸間が六銭であるのに対して、陸送の黒羽、黒磯間が十五銭もした。明治十六年の板貫運賃儀定では黒羽、茨城野田間が板壱駄が十一銭であったのだから、回漕者は鉄道と競争して、運送料金の減額化を図ったのかも知れない。ともあれ明治末期木材薪炭が主に輸送されていたことは、明治四十三年芳賀郡中川村郷土誌の那珂川荷物取扱量表でも、薪炭、木炭が他の荷物に較べて圧倒的に多いことからうかがうことができる。また、〓印貨物積払、受面付帳(阿久津正二家文書)でも取扱品は材木関係に限られている。
〓印貨物運送状況(久那瀬益子廻漕会社扱)
〓印貨物積払面付帳
明治三十八年十一月二日より一月三日迄
月 廻漕日数
十一月 六日
十二月 三日
杉板四三二束 此賃金 一八円三六銭
桧板 一束 四銭二厘
合計一八円四〇銭二厘
外 三〇円三〇銭五厘立替金
十一月一日ヨリ十二月二十九日マデ
合計四八円七〇銭七厘
内金 三円五七銭 下ゲ
差引四五円一二銭七厘
明治三十九年一月七日より三月二日迄
月 廻漕日数
一月 四日
二月 一日
三月 一日
角七二二丁 二二二石三斗八升
此ノ運賃一六円四七銭六厘
桧板杉皮ヲトシ 五束
此ノ運賃 二一銭二厘
合計 一六円六八銭八厘
右請取候也 益子廻漕会社
阿久津濱太郎殿
〓印貨物受面付帳
明治三十九年一月一日より二月八日迄
月 日数
一月 一一日
二月 五日
角二二九丁
杉皮二一三束
ヲトシ 二束
立替金 一〇円八一銭六厘
右請取り候也 益子廻漕会社
阿久津濱太郎殿
最後に明治十六年の板貫運賃儀定による筏輸送の経路は次の如くである。
明治十六年(一八八三)三月
板貫運賃儀定 那珂川筋板貫仲間
改定賃価記
一、板壱駄ニ付 黒羽川岸ヨリ
野田河岸迄
此賃入方共金拾壱銭
但シ長倉河岸迄金六厘増
冬川ハ壱駄ニ付金壱銭五厘増
右之賃価ヲ以当今之間運送可仕候也
黒羽河岸
植竹三四郎
屋代半兵衛 代印
山口利三郎
高柳禄次郎
植竹喜市
菊池長三郎
代押 村田彦太郎
藤田関雄
一、板貫壱駄ニ付 矢倉川岸ゟ
野田河岸〓
此賃入方共金拾銭弐厘
但シ長倉河岸〓六厘増
冬川壱駄ニ付
右之賃価ヲ以当今之間運送可仕候也
矢倉河岸
大金源九郎
一、板貫壱駄ニ付 広瀬河岸ゟ
野田河岸〓
此賃入方共金九銭八厘
但シ長倉〓右同断
冬川
右之賃価ヲ以当今之間運送可仕候也
廣瀬河岸
藤田関雄
一、板貫壱駄ニ付 三川亦ヨリ
野田河岸〓
此賃入方共金九銭五厘
但シ長倉河岸〓金六厘増
冬川
右之賃価ヲ以当今之間運送可仕候也
三川又河岸
大森誠六
一、板貫壱駄ニ付 久那瀬河岸ゟ
野田河岸〓
此賃入方共九銭三厘
但シ長倉川岸〓右同断
冬川
右之賃価ヲ以当今之間運送可仕候也
久那瀬河岸
益子誠兵衛
同所
益子貢
代印 小口治三郎
一、板貫壱駄ニ付 富山川岸ヨリ
野田河岸〓
此賃入方共金八銭八厘
但シ長倉川岸〓右同断
冬川
右之賃価ヲ以当分之間運送可仕候也
富山川岸
代
国保友衛門
一、板貫壱駄ニ付 大澤河岸ヨリ
野田河岸〓
此賃入方共金七銭七厘
但シ長倉川岸〓金六里増
冬川
右之賃価を以当今之間運送可仕候也
大沢河岸
平山寅蔵
滝田河岸
荒井弥平
一、板貫壱駄ニ付 野田河岸ヨリ
細谷川岸〓
細谷河岸
栗田蔵
村山清三郎
吉田弥市兵衛
一、板貫壱駄ニ付 海老沢川岸ゟ
此賃入方共金八銭 吉影大和田乃
紅葉川岸〓
右之價額ヲ以当今之間運送可候也
海老沢川岸
宇野清七
川條平重
宮ヶ谷川岸
海老沢惣左衛門
一、板貫壱駄ニ付 吉影大和田ヨリ
此賃入方共金三銭五厘塔ヶ崎乃串
挽河岸まで
但シ板結縄墨並冬川中共々
吉影川岸
井川市右エ門
井川善右エ門
香取与兵衛
木村東助
四月十日捺印
井川弥十郎
第月十四日調印
一、板貫壱駄ニ付 綱掛ヨリ烏之巣
の塔ヶ崎並串挽〓
此賃入方共金拾壱銭五厘
但シ板結縄墨夏冬共同断
右之賃價ヲ以当今之間運送可仕候也
綱掛川岸
鬼沢新作
烏之巣川岸
鬼沢新右エ門
那珂湊霞ケ浦付近の水路
那珂川沿岸の河岸