1 道路

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「明治十四年(一八八一)調管内諸物品水陸運送状況」によれば、那須郡内の物品運送状況は陸運が十三万五千八百二十二駄、水運が五万八十四駄であり、陸運駄数の方が三倍も多かった。当黒羽は那珂川が筏流し水運は、さかんであったが、陸送の方も相当あった筈である。
 とくに那珂川は直接東京に通じていなかったので、黒羽河岸から東京方面へ発送される物資は、茨城の野田・長倉あるいは海老沢で陸揚げされ、利根川筋に回送されなければならないという弱点をもっていた。そのため江戸時代、黒羽藩では、貢米や商人米など江戸に送る時に鬼怒川筋の阿久津河岸等を利用するということも行なわれたし、また黒羽に入る品物も鬼怒川筋より回送される場合がかなり多くみられた。「嘉永改元戊申年(一八四八)の道普譜寄付姓名録」には「黒羽町より福原村通り喜連川宿〓の道筋殿様御上下は勿論御家中様方御通行其外諸荷物御商人方御往来の場所に御座候処、御見聞の通り、細道悪路にして人馬共難渋至極の義に付。」道普請をしたいということで関係村落に寄付を依頼しているが、黒羽方面の物資の移出入には、福原を通り喜連川に貫ける福原道は重要な役割をはたした。 (注)近世の街道「福原道」参照のこと
 また江戸時代の幹線道路である奥州道中が黒羽町の西北方を走っていたが、その街道には、宿駅が、大田原・鍋掛・越堀とに設けられ、伝馬の制が整備されて人馬の往来や荷物の輸送がさかんに行なわれていたので、それらの方面からの物資の出入があり、鍋掛道や、野間道、大田原道が、人馬や物資の結集に利用された。
 さらに烏山、那珂村(小川)、佐良土を通り、向町を縦断し、寒井を経て白河に達する烏山道白河道(関街道)は、茨城方面の海産物をはじめ、川下の品物を黒羽や奥に、あるいは白河方面の特産物を河岸に運搬するための利用度の高い道路であった。
 また両郷は古くから伊王野、寒井地区と、須佐木は武茂川下流の大山田、馬頭地区と、須賀川は茨城の大子地区と交流が深く、生活関係が密に結びついていたが、他方長峰・唐松・明神の峠を越えて黒羽とも結ばれ、木材や煙草などの八溝山麓の特産物を黒羽に提供していた。
 このように、明治初期には黒羽は那須北の交通において重要な位置をしめ、物資の集散地として、近隣の村々の人々の往来がさかんであり、道路は各方面に展開されていた。現在の黒羽を中心とする主要道路の原型はすでにできあかっていたのである。
 しかしながらこれらの道路は主に谷にそってつくられ、尾根越えの坂と曲がりがひどく、馬背や徒歩による通行であったので道幅は狭く、道路の整備はよくなされず、雨天の場合などすぐにぬかり道となるような有様であった。
 そこで明治政府は全国の交通道路の整備に力をいれ、全国の主要道路は大蔵省続いて内務省の所管事項とし、地方の主要道路は県の、市町村の主要道路は市町村の所管道路としてその管理・整備をはかることにした。本町関係の道路については、仮定県道、一等里道、に編入された。
 
  仮定県道
 大田原ヨリ黒羽ニ達スル道
 烏山ヨリ川西町ヲ経テ寒井ニ達スル道
                  関街道
 寒井ヨリ伊王野に達スル道

那須郡川西町地図(仮定県道)

 一等里道(明治三十二年三月告示)
(四十四年八月告示第百十一号ニ依リ廃止スベキ分ハ△)
 
 区域
                       里  丁
 黒羽町ヨリ須賀川ヲ経テ大子ニ達スル道    四・一八・一五
 黒羽ヨリ黒磯ニ達スル道           一・三三・二六
 黒羽ヨリ両郷村ヲ経テ伊王野ニ達スル道    四・〇〇・四四
 馬頭町ヨリ小砂片田ヲ経テ黒羽ニ達スル道   五・〇三・二五
△伊王野ヨリ須賀川ヲ経テ黒沢ニ達スル道    四・一五・〇〇
△小砂ヨリ須賀川ニ達スル道          二・一四・〇〇
△川西ヨリ東那須停車場ヲ経テ高林ニ達スル道  実測未済
△大内ヨリ大山田下郷少砂黒羽片田ヲ経テ湯津上地内(関街道)ニ達スル道  実測未済
 須佐木ヨリ大山田下郷ヲ経テ健武ニ達スル道  二・二四・〇〇
 
 明治五年(一八七二)太政官は従前の掃除持場を三カ月に一度は清掃するように布告、翌六年栃木県令は自宅前の道路を毎日朝夕一度宛清掃し、牛馬の糞をとり片付けるよう命じた。明治中期には本町では道路掃除日が指定され、一斉に清掃に当り、清掃結果は警察官が調べることとなった。したがって明治期町内の道路は舗装されていない割には比較的よく清掃整備されていたが、一歩町外に出ると、道の整備は行き届かず、道は凹凸で、雨あがりには水溜りができて、通行には大変難儀した。その上、町内外をとわず坂道が多かった。人や馬だけの通行の時はなんとか間に合わせていたが、人力車・荷車・荷馬車が通るようになると、道路の改修整備が必要となった。
 大田原街道の豆田坂の改修が行なわれたのは明治四十五年(一九一二)である。この道は当時土屋町から登る曲り道であり、急な坂道であった。また北野上から両郷に通じる長峰峠も馬泣かせの交通の難所であったが、高戸屋、大塩間の崖を切りくずし、作場道を拡張、荷馬車の通行可能な道に改修したのも明治四十五年(一九一二)である。その後も唐松峠(明三九年開通)・明神峠(昭二七~三〇年改修)の改修と道路の整備は続けられ、現在も続いている大事業である。
 また道路の新設も行なわれた。その中で変化のとくに著しいのは駅前通りである。旭町通りは現在立派な商店が立ち並び、人々の往来がさかんであるが、この道は大正七年(一九一八)東野鉄道が西那須野・黒羽間開通する際に開かれたものである。当時下町の西方町裏は裏川(堂川)の先、崖下まで一面の水田であった。黒羽駅はその先の崖上にできた。そこで下町から駅にいく道路が必要となり、鉄道を敷くために、水田を切り下げた土で向町の元江崎染物屋と停車上を結んだ線上に盛土をして道路を新設した。初めはこの道路に面しては、米川屋、松本染物屋、江崎染物屋、江崎製麺所があるにすぎなかったが、やがて人家が立ち並び旭町を形成した。その後黒羽銀行(足銀)の脇道を土地交換で拡張し、駅前に貫通させて栄町が誕生した。さらに堂川、蜂巣方面から停車場へ直接行ける道路が必要であるという声もあがり、他方旭町の人達からは学童の通学路が欲しいということで堂川と旭町内の五十余名が協力し、大正十一年(一九二二)新道を切り開き、町並が形成された。これが寿町である。昭和八年(一九三三)には黒羽駅と大豆田方面を結ぶ道路が計画され、土地提供と買収によって湯泉神社前の道を貫通させた。このようにして黒羽駅を中心に道路は四方に発展、集落をつくってきた。

黒羽町・川西町真景(大正13年)

道路現状
昭和55年6月30日現在(単位m)大田原土木事務所調
路線名黒羽町大田原土木管内栃木県管内
延長改良率舗装率実延長改良率舗装率巾員
一般国道294号線8,00878.010035,753621003.5~33.4
主要地方道
大子黒羽線21,2044.0~13.0
大子那須線5,35922,22847781.5~9.0
那須黒羽茂木線19,40521,29057932.5~23.3
黒羽西那須野線68610010014,8981001004.7~22.5
黒羽黒磯線2,1001001009,0331001005.0~22.0
48,95472.498.0
一般県道
稲沢黒羽線4,6831005,00201002.5~5.1
東小屋黒羽線4,56111,68253913.0~13.5
須賀川大子線2,0242,0240812.5~4.0
上南方大山田線13,40413,40423891.8~7.4
小口黒羽線3,7941003,79401004.5~15.3
28,51822.786.3

主もな町道(1級町道)(2級町道)
1級実延長
1大豆田線399.0
2栄町線385.7
3向町、桧木沢線4,900.3
4金丸線334.9
5黒磯線2,365.4
6棚倉線1,558.0
7長貫線2,272.0
8中野内、寺宿線913.0
9中間線1,333.0
10大久保、木佐美線666.8
11木佐美、南方線6,720.3
12久野又、寺宿線2,428.6
13大輪、三霞線2,162.0
14町組、大塩線2,101.3
15清水内、南方線4,580.9
16小元線1,381.0
17論手、拍久保線4,541.0
18鶴居線1,428.5
19亀山、湯津上線929.0
20前田、八塩線786.0
21西崖線652.0
1級計42,157.0
 
2級延長
1御山線4,072.3
2女鹿子線1,450.9
3上坪、寒井線2,088.5
4黒磯線2,010.0
5両郷線3,146.2
6河原線2,974.0
7久野又、寺宿線4,525.4
8河原、寺宿線1,190.4
9中野内線1,045.0
10中野内、大久保線544.0
11中野内、大久保線1,476.0
12大輪、久野又線2,286.0
13高戸屋、引橋線753.0
14塩畑、塩ノ草線2,816.2
15善勝寺線830.0
16町田線978.0
17下山田、小砂線2,151.5
18高黒線1,386.0
19高黒線324.0
20天神前、上ノ台線1,380.5
21弾正、吹上線1,326.0
22大久保、木佐美線576.0
23北滝、下山田線2,683.2
2級計41,992.0

その他の町道 136,129m
舗装概況舗装道m舗装率%
1級町道19,08345.3
2級町道20,82949.6
その他町道44,64532.8

 道路の舗装化が最初に行なわれたのは昭和十年代である。当時はアスファルトによる簡易舗装で夏の暑い日ざしの時には、アスファルトが溶けてべたつき、荷馬車が通ると、轍が残るという有様だった。また長い年月には風雨にさらされ多数の亀裂も生じた。本格的に道路の補修、舗装がなされるようになったのは昭和四〇年代である。県道は言うに及ばず、町道も舗装化が行なわれ、町内の主要道路はほとんど舗装が完成した。
 昭和五十年四月一日には、湯津上村狭原より大豆田―向町―寒井本郷―那須町稲沢に抜ける県道は国道二百九十四号線に昇格、本町も国道の通る町になったのである。