(3)黒羽橋

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大輪と鮎が瀬、川田と寒井、館下は川をはさんで両郷、川西と町村は異っていても、人々は血縁的地縁的に深く結び合っていた。その橋渡しをしたのは渡し船であった。賃取渡船場調査(大正九年調)によると大輪の渡しは、大正四年四月より大正十二年三月まで、川田渡しは大正八年二月より大正十三年一月まで許可されている。
渡賃金表  (大正八年度)
大輪 鮎が瀬川田 寒井
 二銭 一銭  人一人持荷共
 三銭 二銭  乗駄馬一頭口共
 三銭 二銭  人力車一輌車乗共
 四銭     荷車一輌仝上
 二銭     荷馬車一輌仝上
 二銭  両掛荷物人共
 二銭  長持壱棹人共

これらの渡しはその後も運行され土地の人々の足として利用されていたが、戦後車の発達にともないやがて姿を消した。
 昭和四十七年(一九七二)国において農村基盤総合パイロット事業が計画され、本町川西地区がその指定をうけることになると、その事業の一環として奥沢、大輪間に本格的な橋をかけることが決まり、昭和四十九年(一九七四)一月より着工、昭和五十年三月竣工、黒羽橋が完成した。この橋は延長百二十五米、巾は八米で、工法は「二径間連続箱桁」「床盤エプレキスト」である。工事費は総額一億七千七百七十八万円。国道二九四号線と堀之内、大輪とを結ぶ通路として、本町の町部の前田、田町から那珂橋への道のバイパス的役割を果し、観光、文化、産業開発上大きく貢献することとなった。