栃木県並びに那須郡における人力車の数を「栃木県統計」及び「那須郡統計」によって調べてみると次のようである。
栃木県人力車数
一人乗 二人乗
明治十三(一八八〇)年 二一四二 一九四
明治十六年 二四二〇 三五九
明治十九年 二八七一 五四
明治二十一年 二三四一 一五
明治三十二年 二八六七 三
明治三十三年 二九七七 二
明治三十四年 二九五五 一
明治三十五年 二七〇八
明治四〇年 二五五八
明治四十一年 二五六七
明治四十三(一九一〇)年二五三八
那須郡人力車数
一人乗 二人乗
明治十三(一八八〇)年 一八四
明治二〇年 二〇二
明治二十一年 一九五
明治四十二年 一八七
大正一一(一九二二)年 三三
以上概観するに、本県においては明治三十年代(一八九七-一九〇六)の前半頃に人力車はピークに達し以後やゝ減少の傾向になってきたように思われる。やはり汽車が走るようになって、長距離の旅客が列車にうばわれたためであろう。とくに二人乗りが明治十九年(一八八六)以降急速に減少をしたのは、日本鉄道の開通と関係があるのであろうか。また那須郡内の人力車の状況は資料が少なくその傾向をみることはできないが、おそらく県の傾向と似たように推移したものと思われる。二人乗りは統計上はでてこない。
黒羽町でも同時代に人力車が使用されていたはずであるが、資料が不足で、その実態をつかむことはできない。「川西町明治二十九年(一八九六)諸営業異動通知書」によると、川西町でも、それ以前より人力車営業者がいたことは明らかである。
諸営業異動通知書川西町
二月四日
人力車 譲受木立末吉ヨリ大豆田 木立百次郎
明治二十九年三月五日 大田原税務署印
川西町役場御中
また明治二十六年伊王野、寒井間の渡船、橋銭料収入予算書の中にも人力車の料金が計上されている。それによると人力車の通行量を年間千八十輌と見積っている。一日平均三輌である。この数字は多くはないが、他の通行者すなわち人が一日十五人、牛馬が九頭と比較すると必ずしも少ない数ではない。
伊王野、寒井間渡船、橋銭料収入予算
一、金五円四〇銭 人力車 三六〇輌
但人力車壱輌ニ付壱銭五厘
但シ十二ヶ月内四ヶ月渡船ノ際川引越ノ見積リ
一、金四円三二銭 人力車 七二〇輌
人力車壱輌ニ付 金六厘
但十二ヶ月ノ内八ヶ月分ノ見積リ
明治十三年(一八八〇)の人力車の運賃及び営業税は県内では次の通りである。
平地一里 五銭五厘より 六銭五厘
山路一里 六銭五厘より 八銭五厘
風雨、悪路 一割より五割の割益
夜間 五割増
営業税は一人乗 一円
二人乗 二円
山路一里 六銭五厘より 八銭五厘
風雨、悪路 一割より五割の割益
夜間 五割増
営業税は一人乗 一円
二人乗 二円
当時の人々は歩くことを原則としていた上に料金も庶民にとって容易でなく、遠距離旅行や婦女子の旅行の場合とかその他金持など特別な人々しか利用できなかったと思われる。
やがて大正時代になって、自転車や自動車が普及しはじめてくると、人力車の乗客は急速に減少し、とくに大正七年(一九一八)東野鉄道が開通するようになると、今まで西部那須野まで人力車を利用していた者は鉄道を利用するようになった。そして人力車は主に町内の乗物となっていった。黒羽駅前には人力立場が設けられて、数台の車を常備されていたが、それも、乗合馬車、つづいて乗合バスが駅前と前田の間を走るようになると、僅かに医者の往診や芸者衆のお座敷への往復に利用されるのみとなり、さらにハイヤーが普及するようになる昭和十年(一九三五)前後には人力車はついに黒羽町においては、姿を消すことになった。
人力車 | 自転車 | 自動車 | ||
年 | ||||
旧川西町 | 大正7年 | 6 | 81 | |
大正9年 | 5 | 200 | ||
大正12年 | 3 | 282 | ||
昭和2年 | 3 | 414 | 1 | |
昭和5年 | 3 | 500 | 2 | |
昭和7年 | 1 | 538 | 9 | |
昭和11年 | 672 | 12 | ||
旧黒羽町 | 昭和3年 | 4 | 565 | 7 |
昭和4年 | 4 | 601 | 6 |