県内の乗合馬車数は栃木県統計によれば、明治十三年(一八八〇)四十八輌同十六年百三十、同十七年九十六同二十年三十輌であり、明治四十二年(一九〇九)になると百〇二輌となっている。乗合馬車運行は明治十五、六年頃にピークをみたが以後減少、明治後期にまた増加をみせる。明治十年代の遠距離用乗物が後期には、近距離用の乗物として利用されるようになってきたためであろう。
郡内の乗合馬車数も統計が少なく、その様子はよくつかめないが、明治十三年が二匹立三輌、明治二十一年はなく、明治四十二年は二十八輌と明治後期、大正期に増加している。東北本線の開通にともない、西那須野から塩原、黒磯から那須温泉、あるいは各地の村落から東北本線を利用する乗客に、乗合馬車が利用されるようになってきたと思われる。
乗合馬車数 | |
明治42年 | 28 |
大正5年 | 41 |
大正6年 | 43 |
那須郡統計より |
黒羽町でも明治末期には須賀川、黒羽間(須賀川、高野、大田原坂内共同経営)の乗合馬車が運行していたといわれるが開始時期はさだかでない。明治四十年代に田町栗原万吉は、黒羽、須賀川方面の路線の権利を獲得し、八人乗りの車を走らせている。また馬頭町郷土誌にも、同じころ、馬頭町大山田上郷と黒羽間(経営大山田菊池)にトテ馬車が走っていたと記されている。明治末から大正期にかけて、田町、西那須野間(経営大田原坂内)を、また、大正から昭和初期にかけて黒羽、伊王野間(経営伊王野磯)馬車が走ってた。
しかし東野鉄道が開通し、自動車が発達してくる昭和の初期になると、黒羽ではもう、トテ馬車の音を聞くことはできなくなった。