4 乗合馬車

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人力車につづいて発達したのは、乗合馬車である。乗合馬車は幕末、外国人によってもたらされ、文久(一八六一~六四)の頃、京浜間を外国人が利用していたが、やがて明治二年(一八六九)頃日本人を乗客とする乗合馬車が東京、横浜間で開通した。明治五年(一八七二)に新橋、浅草間つゞいて十月、千住、宇都間で営業が開始された。(運賃一円九六銭)
 県内の乗合馬車数は栃木県統計によれば、明治十三年(一八八〇)四十八輌同十六年百三十、同十七年九十六同二十年三十輌であり、明治四十二年(一九〇九)になると百〇二輌となっている。乗合馬車運行は明治十五、六年頃にピークをみたが以後減少、明治後期にまた増加をみせる。明治十年代の遠距離用乗物が後期には、近距離用の乗物として利用されるようになってきたためであろう。
 郡内の乗合馬車数も統計が少なく、その様子はよくつかめないが、明治十三年が二匹立三輌、明治二十一年はなく、明治四十二年は二十八輌と明治後期、大正期に増加している。東北本線の開通にともない、西那須野から塩原、黒磯から那須温泉、あるいは各地の村落から東北本線を利用する乗客に、乗合馬車が利用されるようになってきたと思われる。
乗合馬車数
明治42年28
大正5年41
大正6年43
那須郡統計より

 黒羽町でも明治末期には須賀川、黒羽間(須賀川、高野、大田原坂内共同経営)の乗合馬車が運行していたといわれるが開始時期はさだかでない。明治四十年代に田町栗原万吉は、黒羽、須賀川方面の路線の権利を獲得し、八人乗りの車を走らせている。また馬頭町郷土誌にも、同じころ、馬頭町大山田上郷と黒羽間(経営大山田菊池)にトテ馬車が走っていたと記されている。明治末から大正期にかけて、田町、西那須野間(経営大田原坂内)を、また、大正から昭和初期にかけて黒羽、伊王野間(経営伊王野磯)馬車が走ってた。
 しかし東野鉄道が開通し、自動車が発達してくる昭和の初期になると、黒羽ではもう、トテ馬車の音を聞くことはできなくなった。