5 荷馬車

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明治十三年(一八八〇)栃木県統計によると、県内の荷馬車数は三輌であり、那須郡は一輌もみられない。荷車が郡内一二五輌となっていることからも明治初期の物資の運搬は馬背に頼っていたことがわかる。
 荷馬車が使用されるようになってきたのは明治二十年以降で、明治三十二年(一八九九)になると県内荷馬車数は、三千八百輌を超え、明治四十二年には郡内で、六百八十九輌となった。かくて今ままで一度に二駄程度(百五十K)しか運搬できなかった馬背から、一度に約一トンも運搬することが可能となり、荷馬車が陸上輸送の主役に代った。明治三十五年の「筏乗、荷馬車賃額表」には黒羽、西那須野、黒羽、黒磯間の荷馬車運賃が記載されているが、比較的水上運送が有利な材木でさえ、東京方面への出荷の際には、鉄道駅まで荷馬車運送が行なわれるようになった。
 大正七年(一九一八)東野鉄道が開通すると、八溝山麓の木材、薪炭、製材品、米、麦の穀物等は荷馬車で駅に運ばれ、駅前には製材工場、貯木場、倉庫が立ち並んだ。黒羽の各地城には荷馬車業を兼業する人が二十名前後ずつ分布していたがその中で黒羽駅をもつ川西地区がとくに多く、大正から昭和にかけて五十名前後の者が従事していた。

黒羽駅前のポプラ

 荷馬車運搬者の多くは農業のかたわら手間取りとして従事した。昭和初期の土方手間が一日八十銭前後の時に、荷馬車運搬は三円五十銭位であったという。もっとも馬の飼料代として「「しょうふ代」八十銭はかかったが当時のように兼業の機会にめぐまれていない時代には仕事はきついが、率のよい兼業として選ばれた。
旧川西町荷積馬車数
大正7年45
大正9年45
大正12年47
昭和2年51
昭和5年46
昭和13年47
昭和20年51

旧黒羽町荷積馬車数
昭和3年39
昭和4年34

 材木商(製材工場主、薪炭業主等)は「手馬車」といって常時何人か人を専属的に傭い、それらの人が常時荷物の運搬に従事したがもっと多くの馬車が必要な時は、臨時に仲間に応援を頼むこともあった。
 また材木商が、新しい山林を買った場合にはその材木や薪炭の運搬を山林のある地元の荷馬車運送者に頼むということも行なわれた。それは搬出時、他人の土地を通る際にトラブルをおこしがちであり、それを避けるためである。
 輸送区間は主として須賀川、南方、両郷、滝、と黒羽間が多かったが、時としては、烏山、喜連川、芦野、茂木、佐貫まで脚をのばすこともあった。まれには茨城の結城まで杉皮を運んだ人もいるという。荷物は八溝方面よりは炭・材木・煙草、両郷・瀧からはそれに米穀類が加わった。黒羽からは時おり肥料や苗木、それに山で働く人々への米や味噌などの食糧品や生活必需品が主であった。
 朝は六時頃に出発し、目的地に行き、たて場で昼食し、荷物を積んで黒羽駅につくのは通常午後七、八時になった。「馬車迎え」といって家族の人々が提灯をもって黒羽駅まで迎えにくる光景もみられたという。
 稼動日数は三月~五月には二十四日位、一月と七、八月は十日位であった。特に秋は農作業と重なり合い一年中で一番大変だった。
 一台の積載量は木製で鉄輪の時には約一トン(米二十俵尺締六石)位であり、戦後自動車のタイヤが用いられるようになると約二トン位になった。
 黒羽は坂が多く、道路も悪かったので、苦労が多かった。とくに明神峠、唐松峠、長峰坂、平群、豆田坂は馬泣かせの難所であった。それらの坂道にさしかかると「じれ馬」といって馬は立ちどまり、なんとしても動かず。続く馬車も立往生させられることがあった。小砂方面から材木を黒羽に運ぶ時には、坂道を避けるために小口―小川―黒羽と遠廻りをすることもあった。また赤土層で道の中央部が夕立ちで流され窪んでいる「やけん道」も馬泣かせの道であった。
 荷馬車の通れない細道や急な山から材木を麓まで運びだす「山だし」の時には、牛方が活躍した。牛は寝たままで荷をつけることができたのでその点便利であった。数頭の牛を飼育して「山だし」を専門に従事した者もいた。
 昭和十五年(一九四〇)頃より国家運送力増強強化のため警察の指導のもとに黒羽荷馬車組合が結成された。荷馬車従事者は、警察を通して命ぜられる配車計画に従い、主に砂利、食糧、材木、船舶用材等軍事物資の輸送に当った。戦局がますます激化する中で、荷馬車輸送者は最も多忙な時期を迎えたのである。
 戦後しばらく、荷馬車は物資輸送に依然として活躍していたが、昭和三十年(一九五五)代、自動車が発達、会社、商店が相ついで自動三輪車やトラックを購入するようになると物資の輸送は自動車に移った。