6 東野鉄道

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黒羽は八溝山地の谷口の集落で杉、檜、木炭などの林産物、米、麦、煙草などの農産物をはじめその他生活必需品の集散地で、交通上重要な位置を占めていた。黒羽河岸は古来これらの地方の物産を輸送するために大いに活躍してきたが、輸送方法が舟運から陸送へと変化するなかで、やがて衰微し、代って鉄道がその機能をうけもつようになった。この地方の鉄道は、明治十九年(一八八六)上野、白河間の日本鉄道の開通に始まる。その際、駅は、那須(西那須野)、黒磯に設けられ、大田原、黒羽、八溝地方は、鉄道駅から離れてしまった。そのため黒羽方面の物資は、わざわざ、最寄りの駅まで荷馬車で輸送せざるをえず、八溝方面の豊富な森林資源の開発や地域産業の発展の上にも支障をきたすこととなり、東北本線以東の人口にとってはこの本線と結ぶ鉄道設置は切実な要望となったのである。
 明治四十三年(一九一〇)四月政府は地方産業の振興を図る目的で、軽便鉄道の免許手続法、経営規定を公布、軽便鉄道の促進を図るや那須鉄道株式会社発起人総代高島鑛橘は、明治四十四年一月に西那須野永田町より川西町下町に至る八哩の軽便鉄道の敷設を出願したが詳細なる資金計画がなく認可されなかった。
 他方川西町の植竹三右衛門を中心とする那須郡の有力者たちは、西那須野から茨城県大子を結ぶ線と、川西より分岐烏山を経て芳賀郡の真館線を連結する東野鉄道の計画をもち、県内の有力者に働きかけその実現につとめた。協議の結果、大正二年(一九一三)三月東野鉄道株式会社創立発起人代表植竹三右衛門外二十六名は資本金二百万円で西那須野停車場より、茨城県大子町に至る二十五哩一六吋の本線と途中川西より分岐し烏山に至る十四哩の軽便鉄道を敷設すべく、申請書を郡役所に提出した。
    鉄道敷設許可申請
      東野鉄道株式会社鉄道敷設許可申請書
今般私共儀発起人ト相成、栃木県那須郡東北線西那須野停車場ヲ起点トシ西那須野村、狩野村、大田原町、金田村ヲ経テ川西町、黒羽町、須賀川村、大山田村ヲ過キ大内村、茨城県久慈郡依上村、大子町ニ至ル延長二十五哩十六鎖ヲ本線トシ、栃木郡那須郡川西町大字黒羽向町本線七哩二十五鎖ヨリ分岐シ、湯津上村、那珂村、七合村ヲ経テ烏山町ニ至ル延長十四哩ヲ枝線トスル鉄道線路ヲ軽便鉄道法ニ依リ鉄道ヲ敷設致シ旅客貨物運輸ノ業ヲ営ミ度、即チ図面及関係書類一切相添ヘ提出致候間、特別ノ御詮議ヲ以テ右区間ニ鉄道敷設ノ儀御許可被成下度此段申請候也
大正二年三月三日
       東野鉄道株式会社創立発起人
       栃木県那須郡川西町大字黒羽向町四十二番地
                       植竹三右衛門印
       同県同郡黒羽町大字黒羽田町五十四番地
                       増田新七  印
       同県塩谷郡氏家町大字横野十五番地
                       滝沢喜平治 印
       同県同郡矢板町大字矢板五十二番地
                       矢板武   印
       同県上都賀郡落合村大字小代十六番地
                       加藤昇一郎 印
       宇都宮市本郷町三番地
                       上野松次郎 印
       宇都宮市宮嶋町四番地
                       斎藤太兵衛 印
       栃木県芳賀郡市羽村大字赤羽百六十番地
                       藤平謹一郎 印
       同県同郡中村大字寺内二百九十八番地
                       久保市三郎 印
       同県同郡水橋村大字東水沼二千三百番地
                       岡田泉二郎 印
       栃木県塩谷郡北高根沢村大字柏崎百六十一番地
                       矢口長右衛門印
       同県同郡同村大字太田六百四十一番地
                       見目清   印
       同県同郡同村大字太田三十番地
                       加藤正信  印
       宇都宮市清住町三千百五番地
                       小川源次郎 印
       栃木県上都賀郡南摩村大字下南摩十六番地
                       参木彦次  印
       同県同郡鹿沼町大字鹿沼百七十三番地
                       山口亀造  印
       同県那須郡大田原町四百二十三番地
                       若林五郎平 印
       同県同郡同町五百四十九番地
                       川上騰吉  印
       同県足利郡北郷村大字利保四十八番地
                       阿由葉勝作 印
       宇都宮市大工町二十八番地
                       村山金平  印
       宇都宮市三条町十八番地
                       石田仁太郎 印
       宇都宮市博労町六百三十一番地
                       篠原友右衛門印
       栃木県安蘇郡野上村大字長谷場十番地
                       戸叶薫雄  印
       東京市日本橋区川瀬石町十七番地
                       石川甚作  印
       茨城県久慈郡佐原村大字初原八十二番地
                       神永秀介  印
       同県同郡大子町大字大子十九番地
                       益子彦五郎 印
       東京市本所区柳島元町百三十八番地
                       川上保太郎 印
        内閣総理大臣伯爵 山本権兵衛殿
ひき続き三月十五日には黒羽軽便鉄道株式会社発起人代表相馬小太郎外十七名(東那須野―川西間)、四月十七日には黒羽軽便鉄道株式会社発起人高木慶三郎外二十一名(黒磯―川西間)と相ついで鉄道敷設の申請書が出され、競合状態となったが、資本金も群を抜き、県内の有力者を網羅している東野鉄道株式会社に大正二年八月十五日運輸許可の免許状がおりた。
    免許状
                 東野鉄道株式会社発起人
 (東京府経由)                植竹三右衛門
                       外二十六名
右申請ニ係ル栃木県那須郡西那須野村ヨリ茨城県久慈郡大子町ニ至ル及栃木県那須郡川西町ヨリ分岐シ同郡烏山町ニ至ル軽便鉄道ヲ敷設シ旅客及貨物ノ運輸営業ヲ為スコトヲ免許ス
軽便鉄道法第三条ニ依ル認可申請ハ大正三年八月十四日迄ニ提出スヘシ
 大正二年八月十五日
                      内閣総理大臣
 かくて発起人は東野鉄道株式会社の創立にむけて活動を開始したのであるが、実際に始めてみると財政事情は悪く予定の株数を集めることができず、計画は変更せざるをえなくなった。そこで資本金を五十万円に減額、募集を開始、大正五年(一九一六)二月八日、川西町において創立総会を開催、二月十日事務所を開設、創業、準備に入った。
   東野鉄道株式会社(大正五、五、三十一日)
    取締役 社長   植竹熊次郎
    専務  取締役  増田岸太郎
        取締役  見目清
        同    猪股槇之助
        同    阿由葉勝作
        同    斎藤酉之助
        監査役  上野松次郎
        同    川上騰吉
        同    川上保太郎

 東野鉄道株式会社は当初の業務計画を西那須野村より川西迄の八哩二分を第一期とし、川西町より茨城県太子町並びに烏山町に至る線路敷設を第二期として、大正五年(一九一六)六月二十九日工事認可をえて起工、同七年(一九一八)四月十日竣工をみた。かくて大正七年(一九一八)四月十七日黒羽町民待望の機関車が那須野ヶ原の黒羽西那須野間を、白煙を吐きながら走り始めたのである。
 創業時の規模は機関車は一号と三号の二両、客車五両、貨車七両、従業員は四十三名、運輸収入は四月が千二百四十円三十五銭五厘、五月二千二百十八円三十三銭で、大正七年度の収入は二万五千六百七十四円五銭、大正八年は六万六千九百七十三円三十一銭と増大し、大正八年下半期には純益金六千百二十九円四十七銭五厘をうることができた。

東野の一号汽車

 このように、東野鉄道は那須野ヶ原に誕生、西那須野、黒羽間列車走行直後、その年八月には、路線を一部変更し、湯津上那珂村(小川)馬頭を経由し大子町に至る第二期工事を計画、線路延長の申請を行った。ところがその出願中矢板、馬頭の有志を中心に野州電気鉄道株式会社を設立し、当初、矢板、馬頭間、将来は大子、高萩まで電気鉄道を走らせようという動きがおこった。八溝の資源と人々の運送に大きな期待をもっている東野鉄道にとって競合関係の鉄道が走ることは会社の死活にかかわる重大問題である。東野は政府に陳状書を提出して野州電気の不許可を懇願、これにもとづき、監督局は技師二名に現地調査を命じた。その結果、野州の許可は既設の東野鉄道の経営を困難ならしめる恐れがあり、とくに大子までの延長許可は東野の死命を制するとして、野州の不許可を復命した。かくて野州電気は不許可となり、東野鉄道は第一の危機を脱することができ、大正八年十一月十九日には、川西町より大子町に至る鉄道延長綜敷設の許可がおりた。
    免許状
                    東野鉄道株式会社
右申請ニ係ル栃木県那須郡川西町ヨリ茨城県久慈郡大子町ニ至ル鉄道ヲ敷設シ旅客及貨物ノ運輸営業ヲ為スコトヲ免許ス
地方鉄道法第十三条ニ依ル認可申請ハ大正十一年五月十八日迄ニ之ヲ提出スヘシ
  大正八年十一月十九日
                    内閣総理大臣
 そこで会社は期間内に、川西・大子間線路の敷設工事施行申請をするべく、その準備として、工事資金の調達を計画したが、実際に当たると戦後恐慌の中でもあり、株式に応募する者が予想外に少なく、一気に大子までの延長は不可能な情勢となった。そこで大正十一年(一九二二)二月とりあえず川西・小川間七哩一分余の鉄道敷設を申請、三月起工に入った。工事は順調に進み、大正十三年(一九二四)十二月六日、東野鉄道は西那須野―小川間で営業を開始した。
 また当初の目標である大子への線路延長については、その後も工事施工認可申請を二回にわたり出願、その実現を計画していたが、戦後恐慌、震災恐慌、金融恐慌とうち続く財界不況や農村不況の中で資金の調達の目はなはたたず、ついに実現をみることはできなかった。
大正十五(一九二六)年度の営業状況(資本金百三十万)
    従業員 七四名   機関車   三両
    客車  九両   貨車     十両
 大正十五年下半期
             円   銭
  黒羽駅   二九、一三八、五一
  金丸駅    三、三三一、一二
  大田原駅  一九、四三八、八八
  西那須野駅     一二、三〇
  湯津上駅   二、二二二、〇八
  佐良土駅    三、六〇九、五一
  那須小川駅 一四、四一六、九三
       計
  算出収益税分賦国税額一、五九三円八五銭
 このように、東野鉄道は黒羽、小川間の線路延長を行なったが、結果的に営業成績は不良で、昭和十三年(一九三八)の成績によれば、建設費に対する益金割合は僅か八里という状態で、会社運営上の重要問題となった。そこで昭和十四年(一九三九)四月三日大株主協議会を開催し、黒羽、小川間の鉄道の営業の廃止を協議、業績不振の黒羽、小川線を撤廃し、レール価格の昂騰中に売却し、経営の合理化を図ることを決めた。かくて十五年間利用された小川・黒羽の列車は姿を消すこととなった。
    鉄道運輸営業廃止届
昭和十四年五月十三日付監第一四八三号ヲ以テ鉄道大臣ヨリ御許可相受ケ候、当社線黒羽―那須小川間鉄道運輸営業明六月一日ヨリ廃止致候ニ付此段及御届候也
 昭和十四年五月三十一日
                 東野鉄道株式会社
                  取締役社長植竹三右衛門
東野鉄道株式会社は昭和十四年(一九三九)六月一日小川・黒羽の間の運業を廃止し、資本金七十八万円に減額、西那須野、黒羽間の輸送に全力をあげることとなったのであるが、その頃より輸送の中心は軍関係が大きな比重を占めてきた。金丸原駅構内には貯木場が設けられ、軍関係の物資の荷着が増加した。
 昭和十五年度(一九四〇)下半期の営業報告には「業績ノ運輸収入ハ一日三百九十八円余総収入八十七万二千九百四十七円余ニシテ前年同期比シ一割七分強ノ増収ヲ見タリ、即チ旅客ニ於テハ沿線神社仏閣祭日ノ参詣及ビ時局関係者ノ増加ト学徒ノ金丸原秋季野外教練ニ依ル輸送ノ多カリシニ因ル」とあり、昭和十八(一九四三)年下半期それには「運転収入一日平均七百余円総収入十二万八千二百十六円余ニシテ、前年同期ト比較シテ三割六分八厘弱ノ増収ヲ見タレリ、即チ旅客ニ在リテハ、沿線ニ時局関係工場新設サレ之レニ通勤セル工員著ク激増ニ因ル。貨物ニ在リテハ重要物資及一般貨物ノ漸次増加スルモ殊ニ時局関係貨物激増ニ因ル」と報告されているが、昭和十八、十九年は貨物輸送についてはピークを迎えた。
 昭和二十年七月植竹春彦が第二代社長として就任、間もなく敗戦、戦争が終ってみると、わが国は戦時中の空襲で完全に焦土化されていた。生産施設、一般住宅は焼かれ、物資はなく、日本経済は窮乏のドン底におちいった。とくに食糧難は深刻で、都市の人々は食糧を求め、買い出しに狂奔した。食糧をはじめ、都市復興の資材の輸送は緊急事となり、東野鉄道は物資輸送に全力をあげ、戦後復興の一翼を担った。
 ところで東野鉄道株式会社は大正七年(一九一八)創業以来鉄道部門を中心として経営をおこなってきたが、昭和二十三年(一九四八)八月矢野政男が第三代社長として就任するに及び経営の重点は鉄道部門から自動車部門へと転換が図られた。昭和二十三年(一九四八)。資本金三百万円、昭和二十五年(一九五〇)には一千万円と増額、その年の七月には宇都宮自動車工業株式会社を買収、今泉工場として車両整備にも対応できる体制をつくり、昭和三十二年(一九五七)一月には資本金を六千万円と増額、併せて本社を東野鉄道発祥の地川西町より、県都宇都宮市一条町の自動車部に移転した。
 昭和二十九年(一九五四)度の営業概況
自動車部               鉄道部
従業員数四九〇名           一〇〇名
輸送人員七六九、一一一名       一、二四一、九一八名
収入  二六七、三〇八、〇三八円   三五、一四二、二七八円
乗合バス一一一両           貨物トン数四七六六七一トン
観光バス四一両            機関車  四両
                   客車  一〇両
                   貨車  三四両
 戦中、戦後を通し、地元の人々から東野の汽車ポッポとして親しまれた東野鉄道にもいよいよ終局がおとずれた。戦後のモータリゼーション発達により貨物は生産地から直接消費地へ直送するトラック輸送へ、旅客もバスや自家用車の利用の増加で、旅客、貨物とも鉄道利用者は減少するようになった。昭和三十五年(一九六〇)以降は毎年赤字決算がつづき、昭和四十一年(一九六六)までに、その損失累計は七億二千万円余計上し、その多大の損失の後も増大が見込まれることは確実となった。鉄道事業の継続は、東野鉄道株式会社自体の存立を脅す要因となってきた。そこで会社は、鉄道部門の廃止を検討し、関係官庁、沿線関係者との折衡、説得に努めたが、地域関係者にとっては、永年唯一の交通機関として利用してきた関係で反対が強く、その交渉は難航したが、昭和四十三年(一九六八)最後まで残った黒羽町との同意をうることができた。大正七年(一九一八)開設以来半世紀にわたり、八溝山系の林産物並びに黒羽、大田原周辺の農産物、肥料、雑貨等の搬出入と沿線旅客の輸送を主に、那須ヶ原の産業、文化の発展に、多大の貢献を果たしてきた東野鉄道(西那須野―黒羽線)は、昭和四十三年(一九六八)十二月十五日をもってその幕を閉じた。東野鉄道株式会社は鉄道部門の廃止により昭和四十四年社名を東野交通株式会社と改称した。

田園を走る軌道車


営業廃止記念乗車券

東野鉄道株式会社―那須郡黒羽町大字黒羽向町四七一(昭三二、一、)
         宇都宮市一条町一、一六九   (昭四三、五、九)
東野交通株式会社―宇都宮市一条町一、一六九   (現在)
創立 大正五年二月九日
資本金 五〇万   大 五、二、八
    五〇万   大一一、九、三〇
  一一二〇万   大一二、二、二八
    七八万   昭一五、一、一六
   一一二万   昭一九、一二、一
   三〇〇万   昭二三、五、二
  一〇〇〇万   昭二五、四、三〇
  二〇〇〇万   昭二七、六、一
  六〇〇〇万   昭三二、一、三一
 一〇〇〇〇万   昭三五、一〇、一
 一四〇〇〇万   昭三七、一二
 一八二〇〇万   昭四一、四、一

   歴代社長
 植竹熊次郎 大 五、二、八   ― 昭二〇、一、一〇
 植竹春彦  昭二〇、七、二二  ― 昭二三、八、二三
 矢野政男  昭二三、八、二三  ― 昭四三、一、一一
 小林正郎  昭四三、        昭四五、一、八、
 矢野秀男  昭四五、一、三〇  ― 昭四九、一一、一三
 秋葉哲   昭四九、一一、二七 ― 昭五〇、六、四
 渡部厳   昭五〇、六、四   ― 昭五二、六、二四
 相澤正三  昭五二、七、六   ―