本県で最初に自動車の運転が開始されたのは大正二年(一九一三)一月鹿沼・栃木間、鹿沼・宇都宮間であり、その年の四月には宇都宮・日光間が走っている。那須郡内の自動車数は大正四年(一九一五)四両、大正六年(一九一七)六両となっている。
本町で最初に乗合自動車の営業をはじめたのは田町の栗原万吉である。栗原はそれまで黒羽・須賀川間で乗合馬車を走らせていたが、東野鉄道ができたので、乗客を黒羽駅に運ぶために、大正十年(一九二一)頃自動車業に転業した。当時車は国産品は望めなかったので、外車フォードを三両購入、うち二両は黒羽―須賀川間の乗合自動車として、他の一両は主として町内の貸切自動車として運行させた。車はT型(ホロ型)で定員五人制であったが、スペースが広く、交通事情も現在とは違っていたので、乗客が一、二名多くても定員外乗車をさせることもしばしばみられたという。ホロの後方には予備のタイヤをつけ、黒羽―須賀川を一日六往復運行した。自動車の運転免許制が義務づけられたのは、大正八年(一九一九)内務省令によってであり、しかも栃木県の運転試験開始は昭和四年十二月からであった。当時の運転手は県外の人が多かった。免許証は当初、甲種と乙種の二種類で、甲種は全車輛運転、乙種は検定試験時に乗った特定車のみの免許であった。自動車学校は東京にあったが、修了まで六ヶ月を要した。車が故障しても修理工場のない時代であったので、構造や修理については徹底的に教育されたという。しかし当時は一般的には学校に入らず、助手をし、運転を覚え、一発試験で免許証をとる者が多かった。
乗合自動車(昭和初期)
その後大正末期にかけて、田町の内田屋(料理店)が自家用兼接客用として車の使用を始め、また黒磯町菊池慶吉は黒磯、黒羽間に乗合バスの運行を開始、また、トラックでは前田の藤枝秀夫と川西町の五月女兼太が共同で合運送店を設立、黒羽―宇都宮間の定期貨物輸送に当った。
このように大正時代末期(一九二一~二六)になると、この黒羽町にも自動車が走るようになってきたが、当時の一般の人々にとっては、手のとどかぬ高嶺の乗物であり、結婚式とか宴会の帰りとか、一部の資産家や医者のような人達しか利用できない乗物であった。当時の人々にとって、車はハイカラな珍らしい品物として目に写り、乗物としての実用性は第二義的であった。車が通ると、人々は家の外に出てきたり子供は路地から飛びだし、車の後を追いかけるという有様であった。
しかしながら、スピードが速く、道路上をどこまでも自由に走れる、自動車の交通機関としての役割が認識されてくるにつれ、バス・タクシー会社、トラック業が本町にも出現するようになってきた。
まず乗合自動車についてみると、創業以来鉄道一筋に経営してきた東野鉄道株式会社が昭和二年(一九二七)十二月、宇都宮自動車商会より定員十三人乗りのシボレー二輌を購入、黒羽駅・前田間、及び大田原町内巡回の運転を始めた。その目的とするところは、当時黒羽=大田原=西那須野間を東毛自動車が運行されていたので、それへの対策として、乗客を鉄道の方に誘引することにあった。その結果、自動車の営業成績は毎年欠損がつづいたが、このため鉄道に相当の増収をあげることができた。しかし昭和八年(一九三三)五月関東自動車が東毛自動車を買収、黒羽に進出するに及び、東野鉄道は鉄道擁護のため、関東自動車と競争路線である西那須野黒羽間乗合自動車路線の買収交渉を行ない、十二月に契約成立。東野鉄道は昭和九年(一九三四)一月より大田原西那須野間、大田原佐久山間、黒羽大田原間の三線を兼営、本格的乗合自動車営業への第一歩を踏みだした。東野はその後積極的にバス路線の拡大を計画、昭和十一年には島田自動車商会を買収、黒羽・須賀川、南方、上金沢の三路線を、翌十二年には黒羽、黒磯間の旅客運輸営業権を関東自動車より、つづく十三年には黒羽、伊王間のそれを江出自動車より買収した。なお大正十三年(一九二四)以来鉄道路線であった、小川・黒羽線営業成績不良であるという理由でバス輸送に転換されたのは昭和十四年(一九三九)であった。
このように東野鉄道株式会社は、昭和十三、四年の頃には黒羽駅を中心とするバス路線はもとより、県北における主要路線をほぼ統制下に入れ、県北における運輸地盤の基礎を確立した。
東野鉄道バス路線図
黒羽町を中心とする乗合バスの運行表(昭和初期) |
路線名 | 営業者 |
黒羽―大田原 | 東毛自動車→関東自動車 |
黒羽―須賀川 | 栗原自動車→島田自動車商会 |
須佐木―南方 大山田 | 島田自動車商会 |
黒羽―黒磯 | 菊池自動車→関東自動車 |
黒羽―大山田 | 若松屋自動車 |
黒羽―伊王野 | 江出自動車 |
東野鉄道バス路線 |
路線名 | 買収入手時期 |
黒羽駅 前田間 | 昭三年二月 |
西那須野 黒羽間 | 昭八年十二月 |
黒羽 須賀川間 | 昭十一年四月 |
黒羽 黒磯間 | 昭十二年五月 |
伊王野 黒羽間 | 昭十三年下期 |
黒羽 小川間 | 昭十四年七月 |
タクシー業も昭和になると盛んになった。昭和五年(一九三〇)前田で自転車業を営んでいた笹沼篤は川西町下町に転居し、巴タクシーを開業した。車はスターで当時約二千円位であったという。田町では滝田政一が、日光屋タクシーを、島田自動車商会から独立した島田〆吉は、駅前に島田タクシーを、東野鉄道は東野タクシー、前田の屋代勝巳は昭和十一年(一九三六)二月、資本金四千円で屋代自動車商会を設立、旅客輸送業を開始した。かくて、本町にもタクシー氾濫時代が現出、タクシー業者間で乗客獲得の競争が行なわれるようになった。当時タクシーの利用は資産家や医者の往診、結婚式、病人の入院、宴会の帰り客などに制限されがちであったので、業者は客集めのため「十三参り」や海水浴、那須、塩原の観光見物を計画し、歓誘をした。また黒羽駅に汽車が着いた時にも途中の乗客を拾うために、乗客が全部降りるのを待たないでみきり発車をすることもあった。
トラック輸送の最初は大正十五年(一九二六)の合運送で、黒羽宇都宮の定期輸送に従事した。その後五月女は応召、除隊後昭和五年(一九三〇)に分立、川運送店を開業、主に東京方面への材木の輸送に当った。須佐木では島田藤五郎が須賀川の菊池憲智等の援助のもとに昭和五年、島田自動車商会を設立、貸切、乗合トラックと次第に業務を拡大、その間栗原乗合自動車を買収、黒羽・須賀川路線を獲得したが、やがて事業の重点を東京方面への材木の輸送におくようになった。その他では、川西のイ運送店大高元一郎が昭和七、八年(一九三二~三三)頃から、やはりトラックによる材木輸送を行っている。
こうして、昭和初期、黒羽には、五月女、島田、大高らのトラックによる東京輸送が行なわれた。黒羽から東京までは当時の車で六時間はかかった。黒羽を前夜の九時頃出発、途中幸手や荒川大橋で仮眠をとり、深川の木場が開かれる午前六時には木場入りをした。荷物をおろし、黒羽の人々に頼まれた荷物を集め帰途に就くのが午後一、二時、黒羽着は夕方の七、八時であったという。発送荷物はほとんど材木関係だけであった。その他は地廻りの米や肥料の配達位しかなく、荷送依頼者をさがすことが大変であった。トラック運送業を始めても一、二年で過当競争に破れ転業した者もおり、運送業は不安的な職業であった。
前田の藤枝は黒羽・宇都宮間の定期路線をえて営業していた。黒羽からは同じく材木、木炭、薪を発送した。朝、黒羽町内の商店から注文書を預り、それに応じて宇都宮市内の問屋を廻り、品物を受け取り、帰途、配達しながらもどっていた。注文は時により大田原、野崎と途中で受ける場合もあった。宇都宮からの荷物は衣料、肥料、油、砂糖、菓子、長靴等種々雑多で、生鮮食糧 もあった。生鮮食糧品の冷蔵用の氷が運ぶ途中に溶けて、他の荷物を濡す恐れがあるので、運搬にはとくに気をつかったという。しかし、毎日商店廻りをしていたので、お互いに気心が知れ合い、人間関係は今とは違って深かったという。それぞれの店の経営状況も雰囲気からなんとなくわかったし、かなりの支払いの大金を預けられることもしばしばあった。
このような自動車の進出は、今までの陸営業者に影響を与えないわけにはいかなかった。大山田の菊池善助が乗合馬車から乗合自動車に変更したのは昭和八年(一九三三)頃である。人力車が川西から完全に姿を消すのが昭和十三年(一九三八)であった。荷馬車業者にとっても、迅速で、大量の輸送機関であるトラックの出現は脅威であり、不愉快な存在であった。自動車やトラックと出会う時には邪魔することもあった。何台もの荷馬車が道路の真中を悠々通ってなかなか道を譲らなかったり、自動車がクラクションをならそうものなら、馬が驚くといって喧嘩になったこともあるという。車の運転者は、荷馬車と出会うときには、トラブルを避けるために予め車を道の傍に止めて、馬に通ってもらうように気をつかったという。
このように昭和十年(一九三五)頃になると、本町にも自動車の使用が普及しはじめてきたが、昭和十二年(一九三七)七月日華事変がはじまると、軍事優先政策がとられ、ガソリンの規制がはじまった。昭和十三年には陸上交通事業調整法で路線の調整や小規模交通機関の統合合併が図られるようになり、個人的運輸業は不許可となったので、川西警察署管内の貨切自動車業者は共同で「合同タクシー会社」を設立した。この会社の車は十台位あったが満足に走れるのは少なかった。しかしガソリンの割当は車台数が基準となっていたため、不良車の廃業処分はできなかった。そのうち燃料はますます窮屈となり、昭和十五年(一九四〇)頃には木炭自動車に切換えさせられた。しかし木炭使用車は計費がかかり、採算がとれなかったので、会社を解散することとし、権利を東野に売却、黒羽町のタクシーは東野のみとなった。
乗合バスの場合も同様である。ガソリンの規制が強まる中で昭和十五年鉄道と並行して走った黒羽、大田原線、黒羽、黒磯線のバスがまず運転休止になり、つづいて、翌十六年には、運行回数の四割減が実施された。車もガソリン車から木炭車へ、更には薪自動車へと代燃車が使用され、遠距離運行輸送に重点が置かれ、運行燃料の節約が図られた。昭和十九年(一九四四)四月戦時下における国内輸送の一元化を意図した交通事業統合政策により那須地区は県北総合地域に指定され、東野鉄道株式会社は矢野自動車商会、那須合同自動車株式会社、板室温泉自動車株式会社を併合、県北全域の旅客貨物を独占的に輸送することとなった。当時、黒羽には乗合バスは二台しかなかった。それをつかって昼間は路線、夜間は大田原の中島飛行機製作所へ工員の輸送と、昼夜のフル運行に当ったのである。
トラック関係も戦事併合政策によって、東野運送及び、塩那貨物の二会社に統合され、ともに軍関係の物資の輸送を中心に運行された。トラック関係は、バスやハイヤーに比べ、物資の輸送ということで、タイヤや燃料配給などで若干優遇されたが、車の痛みは激しく、惨澹たるものであった。木炭車ではスピードに欠け、坂道ではしばしば故障をした。このような苦しい状況の中で終戦を迎えたが戦後数年間は相変らずの物資不足と燃料不足のもとで輸送業務に従事した。
昭和二十五年(一九五〇)の朝鮮動乱を境とし、日本経済は復興期を迎えると、金属、繊維を中心に特需景気が起こり、その後空前の民間投資と政府投資に支られ、やがて高度成長期に入っていった。自動車については昭和二十四年(一九四九)に生産制限が解除され、旧軍需工場の多くが、自動車生産に転換したり、外国から輸入車が大量に入ってきたので、昭和二十年(一九四五)には十三万台であったのが二十六年(一九五一)には五十万台、二十九年には百万台を突破した。
そこで黒羽町においても自動車の所有者は急速に増加し、昭和三十一年四月、百四十七台を数える程になってきた。
乗合バス十台、普通貨物三十二台、普通乗用者十台、小型四輪二十三台、自動三輪五十一台、軽自動車二十一台
戦後のバス関係の推移についてみると、東野鉄道株式会社は昭和二十三年(一九四八)資本金を三百万に増額、第三代社長矢野政男のもとで自動車事業の拡大がはかられた。戦時中燃料不足で休止を強いられていた路線は、昭和二十五年(一九五〇)頃までに殆ど再開、更に新しい区間の運転も開始された。昭和三十一年(一九五六)には黒羽―寒井―伊王間が、昭和三十三年には須佐木―上南方間の運行が始められた。また昭和二十五、六年頃から観光バスが会社に備えられ、積極的に各種団体の旅行の勧誘が行なわれた。かくて昭和二十五、六年から、約十年間、バス事業は全盛時代を迎えたのである。
東野鉄道自動車部概況 (昭和二十九年度)
従業者 四百九十名 免許粁 八百七十八・八粁
輸送延人員七十六万九千百十一名
収入 二億一千七百三十万八千三十八円
乗合バス 百十一両
観光バス 四十一両
黒羽を中心とするバス路線
黒羽―大田原―西那須野・黒羽―大田原―宇都宮・小川―黒羽―東那須野
黒羽―伊王野―白河・黒羽-須佐木-上金沢
黒羽―須佐木―上南方・馬頭―小川―黒羽―黒磯・黒羽―小砂―馬頭
昭和三十年代になると日本経済は神武景気、岩戸景気、それにつづく高度経済成長時代と経済は発展し、かつては自動車の輸入国だった日本が、今や転じて世界一の輸出国となった。そして今まで自分達の生活には全く関係のない乗物と考えられていた自動車を今や一般庶民が容易に所有するようになった。黒羽町でも昭和四十六、七年頃には、二世帯に一台の割合で自動車を所有する状況となった。
自動車が二世帯に一台、あるいは一世帯に二台と普及するにつれ、バスを利用する乗客は年々と減少をきたし、バス経営そのものが農村部では、危機的状況に追い込まれるようになってきた。そこで会社は、昭和四十二年(一九六七)八月ワンマン・バスの運行をはじめ、新たに利用客が増加してきた黒羽刑務所や、黒羽高校へのバス乗入れ、あるいは一部区間の自由乗降車制の採用と経営合理化に努めているが、現在のところ名案も浮ばず、乗客数の少ない路線については路線の休廃止、あるいは運行回数の縮小という消極的手段で対処しているという状況である。
路線の新設・廃止
昭四〇・八・六 雲岩寺―中南方線廃止
昭四〇・八・六 雲岩寺―小砂馬頭線廃止
昭四七・八・五 雲岩寺―上南方線廃止
〃四七・一二・一 黒羽―稲沢・伊王野線廃止
〃四八・一二・二・七 大田原―黒羽刑務所運転開始
〃四九・八・二・四 雲岩寺―上金沢線廃止
〃五二・四・一 黒羽―湯津上―小川線廃止
〃五三・三・二・三 黒羽―東那須線廃止
〃五五・九・一 大田原―黒羽高校線運転開始
東野バスが運行廃止により南方、須賀川、篠原地区の住民(とくに老人、幼児)に対して町は町営バスを運行し便宜を図っている。他方貨物輸送も著しく変化した。戦後モータリゼーションの発達普及にともない、材木会社は逸早く、自家用貨物車を購入、材木を直接市場に運搬するようになった。次いて商業、農業関係者も自家用の軽荷物車を利用し、商品の配達や農作業に当るよう変化した。菓子類を初め、多くの業種の生産工場や問屋が定期的に各商店を廻って商品を納める形式に変化したのも戦後の特色である。また車の往来の激しい都会では、交通規制が厳しく、貨物車が問屋から問屋を廻わるという従来の輸送方法は不可能となり、ある一定のターミナルに小さな車で荷物を集めそれを運送する宅急便が開発された。黒羽町で宅急便が開始されたのは昭和五十一年(一九七六)である。
このような自動車の増大と輸送方法の変化によって、丸通取扱の荷物は年々減少、ついに昭和五十六年五月丸通は黒羽営業所を閉業した。
自動車数および世帯普及率 |
年 | 黒羽 | 川西 | 両郷 | 須賀川 | |
種別 | |||||
昭和46年 | 乗用車 | 369 | 492 | 272 | 212 |
貨物 | 216 | 190 | 74 | 85 | |
軽自動車 | 142 | 146 | 59 | 78 | |
計 | 724 | 828 | 407 | 375 | |
普及率 | 43.1 | 50.2 | 54.1 | 37.3 | |
昭和47年 | 乗用車 | 478 | 565 | 316 | 259 |
貨物 | 201 | 316 | 83 | 97 | |
軽自動車 | 129 | 149 | 78 | 105 | |
計 | 828 | 928 | 477 | 461 | |
普及率 | 49.3 | 56.2 | 62.3 | 45.3 | |
昭和53年 | 乗用車 | 1,010 | 1,004 | 590 | 559 |
貨物 | 332 | 239 | 136 | 121 | |
軽自動車 | 225 | 241 | 157 | 182 | |
計 | 1567 | 1484 | 883 | 862 | |
普及率 | 74.3 | 78.7 | 86.4 | 73.1 |
参考文献
栃木の水路 栃木県文化協会
栃木県鉄道史話 大町雅美
ふるさと雑記 黒羽町教育委員会
那須郡誌 蓮実長
東野交通五拾五年の歩み 東野交通株式会社
わがふるさと 蓮実長
日本世相百年史 下野新聞社
栃木県大百科事典 栃木県大百科事典刊行会
日本歴史大辞典 河出書房
栃木県史 栃木県
黒磯市誌 黒磯市誌編さん委員会
烏山町史 烏山町
西那須野史 西那須野町
馬頭町郷土誌 馬頭町
栃木県歴史年表 下野新聞社
栃木県統計 栃木県
那須郡統計 那須郡役所
川西町郷土地理歴史調 川西町
歴史編輯材料調 黒羽町
東野交通株式総会資料 東野交通株式会社
全国道路交通情勢調査 栃木県土木部
栃木県交通量図 栃木県土木部
東野交通株式会社営業路線図 東野交通株式会社
町民のくらし 黒羽町
栃木県黒羽及川両町真景 室越書店
東野鉄道列車自動車運転時刻表 東野鉄道株式会社
〓印貨物積払面付帳 阿久津正二家文書
〓印貨物受面付帳 〃 〃
道普請寄付姓名簿 〃 〃
板貫運賃儀定 〃 〃
くろばね町勢要覧 黒羽町
下野郵便線路之図 栃木県
両郷村郷土誌 両郷尋常小学校
須賀川村郷土誌 須賀川村
黒羽郵便局新庁舎案内 黒羽郵便局
(黒羽町役場文書綴)
川西町勢一覧
一等里道
舟橋のいわれ
町道
馬匹名簿
寒井渡船場
評議書綴
土木関係綴
栃木県鉄道史話 大町雅美
ふるさと雑記 黒羽町教育委員会
那須郡誌 蓮実長
東野交通五拾五年の歩み 東野交通株式会社
わがふるさと 蓮実長
日本世相百年史 下野新聞社
栃木県大百科事典 栃木県大百科事典刊行会
日本歴史大辞典 河出書房
栃木県史 栃木県
黒磯市誌 黒磯市誌編さん委員会
烏山町史 烏山町
西那須野史 西那須野町
馬頭町郷土誌 馬頭町
栃木県歴史年表 下野新聞社
栃木県統計 栃木県
那須郡統計 那須郡役所
川西町郷土地理歴史調 川西町
歴史編輯材料調 黒羽町
東野交通株式総会資料 東野交通株式会社
全国道路交通情勢調査 栃木県土木部
栃木県交通量図 栃木県土木部
東野交通株式会社営業路線図 東野交通株式会社
町民のくらし 黒羽町
栃木県黒羽及川両町真景 室越書店
東野鉄道列車自動車運転時刻表 東野鉄道株式会社
〓印貨物積払面付帳 阿久津正二家文書
〓印貨物受面付帳 〃 〃
道普請寄付姓名簿 〃 〃
板貫運賃儀定 〃 〃
くろばね町勢要覧 黒羽町
下野郵便線路之図 栃木県
両郷村郷土誌 両郷尋常小学校
須賀川村郷土誌 須賀川村
黒羽郵便局新庁舎案内 黒羽郵便局
(黒羽町役場文書綴)
川西町勢一覧
一等里道
舟橋のいわれ
町道
馬匹名簿
寒井渡船場
評議書綴
土木関係綴
(注)ほかの領域についても、多くの文献を参照させていたゞいたが、省略させていたゞいた。ご了承ください。
バス路線及び本数 昭和51年
黒羽関係バス路線年間輸送人員
(東野交通調)