二 電信・電話

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 黒羽郵便局が電報事務の取扱いを開始したのは明治三十三年(一九〇〇)三月十六日であった。また電話交換業務の取扱いを開始したのは明治四十一年(一九〇八)十二月十八日であった。当時の電話機は磁石単式といわれ電話機の横のハンドルを回し、発電させる方式であり、最初の加入者は十九名であった。
明治41年電話加入者
1番斉藤亥之助
2番増田二郎
3番菊池九五郎
4番菊池政三郎
5番橋本文之助
6番斉藤酉之助
7番(丸通)
8番植竹三右衛門
9番増田新七
10番(マコト料理店)
11番須藤忠蔵
12番菊池秀勝
13番江部寅松
14番黒羽商業銀行
15番猪股槇之助
16番黒羽銀行
17番鈴木酉之助
18番菊池三之助
19番安田六之助

 須佐木郵便局の電話交換業務の取扱いは昭和八年(一九三三)三月十六日で、加入者は三名、両郷郵便局は昭和十四年(一九三九)十二月六日で加入者六名、須賀川郵便局は昭和二十三年(一九四八)で加入者は九名で出発した。
川西町
電話加入者数
大正7年37
大正9年33
大正12年46
昭和2年43
昭和4年53
昭和5年53
昭和12年46
昭和13年61

 川西町勢一覧で川西地区の電話加入者数をみると、大正から昭和十年(一九三五)初めにかけて凡そ、四、五十戸で、ほぼ固定していたが、戦前は電話の利用は官庁、会杜、商店という所で、一般家庭には普及していなかった。敗戦後もしばらくは、経済は復興せず、通信事業の諸施設も復興されず、ほぼ同じような状況であった。昭和三十年、町村合併後の十二月の全町の加入者数は、二百六十六名である。当初、電話で送話する時には交換手を呼びだし、相手の回数に繋いで貰い通話するという仕組であったので、相手が遠距離である場合にはなかなか繋がらないという不便さがあった。昭和三十七年(一九六二)一月大田原局の自動改式に伴い、同年七月一日より、黒羽・須佐木・佐賀川・両郷の各局は市外集中方式となり、市外通話は大田原局で取扱い、黒羽局の交換手はその中継と市内通話の接続のみとなり、通話の迅速が図られた。さらに昭和四十一年(一九六六)一月一日より黒羽町の各局は半自動が開始され、昭和四十三年(一九六八)十月八日にはクロスバー交換機が入り自動改式を迎えた。これにより、即時通話は可能となり、電話の機能は進化したのである。(加入者五〇五名)
 電話の普及については戦後復興の中で、電話架設を求める声が高まり、産業界の発展にともない電話需要はますます増大し、昭和三〇年代には企業のみでなく一般家庭でも電話設置を求めるようになってきた。しかしながら、これらに対して電々公社は電話増設に努めたが、農村地区についてはどうしても遅れがちとなった。そこで農協・役場が中心となって有線放送を作ったが、有線放送は接続範囲が狭く、しかも県内しか通話できないという欠点をもっていた。黒羽町については昭和四十五年(一九七〇)三月に黒羽地区(東・西・南)にボックス形の無人自動交換機を設置し、自動交換機と電話機関の電話回線一回線に接続される電話機を五個以上十個以内とする多数共同方式の地域集団電話が設置された。(八百二十七加入)つづいて昭和四十五年四月には須佐木・須賀川・両郷地域集団電話(七百四十九加入)が開始された。
区分開通年月日加入数追加加入数合計
局名開通年月加入数
黒羽(東西南)昭和45.3.25827昭和48.287914
須賀川〃 45.4.2119157248
須佐木〃 45.4.2120161262
両郷〃 45.4.2135821379

区分切替年月日加入数
局名
黒羽(東西南)昭和56.2.14731
須賀川〃 56.2.25207
須佐木〃 56.2.25218
両郷〃 56.1.13329

電話普及の推移
年度加入者普及率
昭和30年266
昭和43年505
昭和46年2,98472.5%
昭和47年3,13775.8%
昭和48年3,49784.7%
昭和49年3,71290.1%
昭和50年3,84293.5%
(黒羽郵便局調)
昭和55年3月 普及率
世帯数 4,009世帯  電話有 3,829世帯
普及率 95.5%  (大田原電々公社調)

 これら地域集団電話は多数共同方式の加入電話であるため「話し中」が多いことや一般加入電話の普及が著しいことから一般加入電話への種類変更(一般化)の要望が増加してきたので一般化が図られた。