明治新政府は、全国の教育行政を統轄する機関として明治四年(一八七一)初めて文部省を設置した。これは廃藩置県直後のことであり、以前は府藩県の制度であり新政府の教育政策の対象は府と県に限られ、大部分を占める諸藩の教育は新政府の教育の直接統轄するところではなかった。諸藩の教育は、各藩ごとに統轄されそれぞれに教育行政が実施されていた。この点で文部省の設置は全国を対象とする教育行政の実施の上からみて重要な意義をもち、明治維新後の教育に一つの時期を画するものであった。
学制は明治五年(一八七二)八月公布され、文部省はこれを全国府県に頒布した。学制の発布にあたって政府は、学制の基本理念を明らかにした前文ともいえるいわゆる「被仰出書」を頒布した。
「被仰出書」は、「邑に不学の戸なく家に不学の人なからしめんことを期す」と述べ、新しく設けられる学校及びそこに学ぶ学問の性格を明らかにし、その学問は実際生活に役立つものであり、学校はすべての人々に必要なものであると説いている。次に「学問は身を立てるの財本」であるとし、各人のためのものであると述べ、更に、父兄に対し幼童の子弟は男女の別なく学校に就学させるべきであると説いている。いわゆる国民皆学、義務教育の思想を示した。府県では太政官布告をうけて「学制」の趣旨の徹底をはかり、全国に「学制」が実施されることとなった。