大正八年(一九一九)に「小学校令」および「小学校令施行規則」の一部改正が行われ、教科課程の整備が図られた。大正七年(一九一八)には「市町村義務教育費国庫負担法」が制定され、市町村立尋常小学校教員の俸給の一部を国庫が負担することとなった。
大正十五年(一九二六)小学校令および小学校令施行規則が改正された。この改正では「幼稚園令」の制定、高等小学校制度の改善等であった。
この制度は「地方の事情に適切なる教育」を施すものとし、「実際生活に一層適切」な教育内容を授ける点にあった。手工と実業(農業、商業、工業の一ないし数科目)が必修とされ女子には裁縫のほかに家事が独立の教科目として必修とされた。
大正・昭和初期における単置の小学校また単置の高等小学校は減少し尋常高等小学校の増加の傾向が現われ、尋常高等小学校が小学校全体のなかで占める割合は大正末期以降では約七〇%を占めるに至った。
この時期は義務教育修了者の高等小学校への進学率の上昇および学齢人口の急速な膨張によって小学校児童数は著しく増加した。更に学級数が増加し校舎の不足をきたし二部授業を実施する小学校もかなりの数に及んだ。為に地方によっては財政面で深刻な事態に立ち至った所もあった。
大正・昭和初期の小学校では、明治期に引き続いて国定教科書が使用された。大正期の始めは第二期国定教科書の改訂であったが、大正七年(一九一八)、昭和初期、昭和八年(一九三三)には色刷りの国定教科書が使用された。例えば従来の「尋常小学読本」を修正するとともに新しく「[尋常小学]国語読本」を編集し、二種類のうちいずれを使用してもよいこととした。「[尋常小学]国語読本」は「ハナ ハト マメ マス」の読本である。修身教科書も昭和九年(一九三四)から、昭和十年(一九三五)には算術も色刷りとなった。しかし当時は満州事変が始まって後のことであり、内容的には国家主義教材が多くなり時代の思想を反映している。国語読本は書名が「小学国語読本」となり、桜の絵に「サイタ サイタ サクラガサイタ」と変っている。仮名や単語で始まっている従前の読本に対し、子供の生活と心理を重視する新教育思想のあらわれである。
国語の国定教科書
この時期の学校行事は多様化し質的変化を生じた。例えば儀式は三大節から四大節になり神社参拝、朝礼が加わった。また大正期の教育思潮である児童中心主義の波及のもとで児童の自己活動を重視する考え方が行事の様相を変えた。