戦時体制下の労働力需要にこたえるため昭和十六年(一九四一)以後は特に食糧増産の必要性がたかまったため年間三十日以内の授業を勤労作業にふりかえることができるとした。
昭和十八年(一九四三)決戦体制下に入るに及んで名目上は学業、訓練、勤労を一貫する教育錬成の場として位置づけられたが、実質的には国防的軍事的労働力の供給源となった。
昭和十九年(一九四四)になると戦局は極度に逼迫し、中等学校程度以上の学校は「今後一年常時之を勤労其の他非常任務に出動せしめ得る」態勢をとることになった。いわゆる通年動員である。なお国民学校高等科の児童についても土地の情況、心身の発達等を考慮して適当な作業種目を選んでこれを実施することとした。この学徒動員は工場、事業場のほか農林水産業、軍作業所戦時生産の殆どの分野に学生生徒および一部の児童が駆り出されたのである。更に昭和二十年(一九四五)三月、政府は「決戦教育措置要綱」を決定し国民学校初等科を除くあらゆる学校の授業を昭和二十年四月一日から一年間停止することとした。