(1)占領下の教育

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昭和二十年(一九四五)八月十五日「終戦の詔書」が全国に放送され、太平洋戦争の終結が国民に知らされた。わが国の教育は敗戦を境として一大転換にせまられ、教育の基本理念においてまた教育制度、内容方法についても一大改革が行われた。文部省は「終戦の詔書」が発せられると直ちに訓令を発し「教学の再建」を要望した。その後、疎開学童の帰還、動員学徒の引き上げ等が行われ学校教育は再開された。そして教育は戦時体制から平和体制へと切り換えられた。終戦直後は長期の戦争と敗戦の結果、食糧難、住宅難をはじめあらゆる面で国民生活は窮乏の極に達していた。また教育の環境が荒廃し教育の基礎条件が破壊されていた。特に深刻な問題は食糧難であった。児童生徒は勿論教師も食糧難にあえいでいた。学校の勤労作業は食糧増産に重点を置き、学校農園が設置された。従来は食糧としなかった甘藷の茎・葉、野生の雑草などを採取して食糧を補給する状態にまでなった。敗戦後の教育は校舎の焼失を始め教科書・教材面においても大きな苦悩があった。戦災のため教科書や学習用具の焼失もあり、戦時教材を切り取ったり、墨を塗ったりして削除しなければならなかった。また教員にとっても食糧難、住宅難に加えて戦時中深く信じていた教育の根本理念が否定され大きな打撃が加えられたから精神的苦悩も加わり教職を去る教員も少くなかった。昭和二十一年(一九四六)三月、「米国教育使節団」が来日し、総司令部に報告書を提出して戦後日本の教育改革について提案勧告した。この報告書に示された勧告が占領教育政策の基本となった。昭和二十一年五月、文部省は「新教育指針」を示した。これは、①個性尊重の教育②公民教育の振興③芸術教育の向上④科学的教養の普及⑤体育の改善⑥芸能文化の振興⑦勤労教育の革新である。更に二十一年十月、男女共学の実施について指示をした。これをうけて戦後の教育の改革について「教育刷新委員会」が内閣に設置され、教育改革について建議が行われた。これに基づいて昭和二十二年三月に「教育基本法」及び「学校教育法」が制定公布された。