スポーツの実施は戦時中の健民運動の中でも実践項目と一つとしてとりあげられ、政府によりその実施が奨励されてきたが、当時の人々はスポーツは児童、生徒のみの行なうものであるとの理解しか示さず、一般人にとっては関係ないものであった。
戦後もしばらくの間は同じような状況であった。当時は敗戦後であり経済の状況は極度に悪く、人々はその日その日を生き抜くことで精一杯であり、とてもスポーツにまで関心をむけるという精神的、時間的余裕を持ち合わせなかった。
昭和二十六年(一九五一)講和会議が成立し、経済の方も一段落がつくようになると人々はスポーツに目をむけるようになってきた。とくに戦後復活した高校野球に刺戟をうけ野球熱は一段と高まりをみせた。またわが国の古来のスポーツ、剣道、柔道等も復活され、スポーツ愛好会が町内にみられるようになってきた。
スポーツが一般成人に本格的に普及してきたのは昭和三十年代からである。当時、青少年の心身の健全なる育成は、学校教育のみによってだけでは達成できない見地から、社会教育が重視され、就中、子供会の育成が強力に図られた。そこで各地区では子供会の組織がつくられ、保護者が協力し地域の子供達に健全なる遊びについて積極的指導が展開された。このような訳で地域の親たちの間に、子供を媒介として、コミュニケーションが行なわれ、一つのまとまりが形成された。そしてその時利用されたのがソフトボールである。ソフトボールはルールが野球に似ており、容易に親しむことができたので、爆発的人気で、地域や職場の人々に歓迎された。休日ごとにソフト練習会や、公民館主催の部落対抗大会が開催されるようになり、人々はスポーツに親しむようになってきた。
これらソフトボールは女性の中にも浸透したがとくに多くの家庭の婦人をひきつけたのはワンタッチバレーボールである。夕食もそこそこに集落内の空地に電灯をつけ、若いお母さんがバレーボールにはげむ姿はあちこちにみられた。田圃の片隅がたちまちのうちにバレーコートに早がわりをし、おばあちゃんが、孫のおもりをしながらお嫁さんにさかんな声援をおくる光景もみられた。そしてそれまでスポーツとは全然かかわり合いを持たなかった家庭の婦人はワンタッチボールを通し、スポーツで汗を流す楽しみを味わうようになった。
このようにして、昭和三十年代から四十年代にかけて、スポーツをする人の層は一段と厚くなった。それとともに、スポーツの種目も幅が広くなり、町内各地には種々のスポーツ愛好会が誕生した。これら町内の各種運動部を総合、統括し、本町民の体育運動を振興し町民の、体力向上とスポーツ精神を鍛練すべく努めてきたのが黒羽町体育協会である。