五 黒羽町の山火事

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 昭和五十二年(一九七七)三月十五日午後二時三十分頃、黒羽町大字八塩地内で発生した林野火災は、瞬間風速十三メートルに及び異常乾燥注意報が発令された最悪の気象条件に災いされ、約十キロメートル風下にある馬頭町大山田下郷地区まで延焼拡大したが、空陸からの懸命な消火活動によって翌十六日十六時ようやく鎮火した。当時の地元新聞の大みだしのみを記すと(三月十六日)「火魔那須郡を荒れ狂う。山林六〇〇ヘクタールひとなめ。民家も十四戸四五〇戸避難。夜空を染める赤い恐怖全山土も燃えている。自衛隊機動隊も出動。別の新聞には「強風下八溝山系で火災一、四〇〇ヘクタール焼き延焼。黒羽町から出火馬頭に飛び火、民家など二十六棟も。自衛隊も出動懸命の消火。県が対策本部設置。山から山へ荒れ狂う炎、爆発のように広がる。避難命令に逃げまどう住民。」
 翌十七日の新聞には「八溝山一夜にして灰と化す。空から薬剤人海戦術でとゞめ空陸作戦二十四時間後に鎮火、山林八〇〇ヘクタール二十二棟焼く。弁当も手配平穏に被災の一一一人が高校受験。」
(注) 「三月十六日は県下高校入学試験日であり、一睡もしないで試験場に向かったものもあり、県教委では前夜から緊急入試対策本部を設置、被災地区の生徒が受験出来るよう万全の援助方策を講じて欲しいと、関係町村教委によびかけた。被災地の受験生は一一一名で黒羽中は二七・大山田中三八名、馬頭中二八名であった。奇しくも昭和二十年三月十七日の寒井大火も高校受験の前日であった。


林野火災経過図

 この林野火災被害地は、八溝林業地帯の中心地であるため人工林率は高く、利用伐期に達した森林が多く、両町の被害面積は一、五一八ヘクタール(うち国有林三四〇ヘクタール)被害額は、三十四億七千二百万円の巨額に達する外、住宅九棟を含む三十棟の家屋が類焼するなど、本県最大の林野火災であった。
(注) 「過去の主なる林野火災(県内)
昭和二十八年(一九五三)四月十四日、田沼町林野一〇〇ヘクタール建物一六四棟五十世帯被災。昭和四十二年(一九六七)一月十九日、塩谷町宇大演習林から出火四八・五ヘクタール焼失。昭和四十四年(一九六九)五月四日、栗山村川俣に於て五〇ヘクタール焼失。昭和四十八年(一九七三)三月二十五日、葛生町と栃木市柏倉岩舟町一市二町で一七一ヘクタール焼く。
同日、田沼町佐原より出火六二・七ヘクタール焼失。」

黒羽町の林野火災経過は次の通りである。
五二年三月一五日
一四時三〇分黒羽町八塩地内から林野火災発生
一五時〇〇分黒羽町北滝公民館に山林火災対策本部設置
一六時二〇分馬頭町地内に延焼拡大
〃   黒羽町長から自衛隊派遣要請空中消火依頼
一六時二五分栃木県知事から自衛隊派遣要請
一八時一〇分現地対策本部を黒羽町役場に移転設置
一八時三〇分馬頭町役場に防災対策本部設置
一八時五〇分栃木県災害対策本部設置
三月一六日
七時三〇分空中消火活動開始
一〇時三〇分県議会農林委員会現地調査
一一時四〇分黒羽町地区鎮火
一五時五〇分馬頭町地区鎮火
〃   空中消火活動終了
一六時〇〇分全地区鎮火
〃   栃木県災害対策本部解散
県の林野火災復旧対策方針内定
林野庁へ復旧対策要請

 黒羽町の被害は国有林はなく、民有林六三七ヘクタール、被害総額七億九千七百万円であった。
 黒羽町の林野面積は一三、六三七ヘクタールあり被害率は実に四・七パーセントに当る。
林野火災被害状況
昭和52年3月31日
区分森林林産物被害額林業施設被害額被害額計備考
面積蓄積被害額人工林率人工林利用令級率
黒羽町ha千m3百万円百万円百万円百万円
国有林
民有林63755790707977117
6375579070797

民有林野火災被害状況
1.立木の被害
昭和52年3月31日
町名林種面積蓄積うち,激甚地被害額利用可能材積激甚率
面積蓄積
黒羽町針葉樹hamham3千円m3
スギ329.0440,159329.0437,705558,4252,454100.0
ヒノキ115.214,737115.214,717138,63820100.0
アカマツ他31.803,31531.802,86038,860455100.0
小計476.0548,211476.0545,282735.9232,929100.0
広葉樹ザツ160.827,199160.825,68853,9271,511100.0
636.8755,410636.8750,970789,8504,440100.0

 復旧計画
 今回の林野火災は、黒羽町に於ては、民有林が多く、六三七ヘクタールにも及び、殆んど裸地化した激甚地が多く、このような被害状況からみて被災地の復旧は二次災害の防止と被害木の有効な活用を図り復旧造林を推進し林業の振興をはかることが急務である。県及び町各森林組合被災者が各種方策を行い、着々とその実施を行なったが、問題の被害者は今回の災害と林業事業はその収入をみるまで長期にわたるため林業に山離れをした観がないでもない。
 昭和五十二年(一九七七)三月十九日復旧対策本部を設置、裸地化した林地は保水機能が低下崩壊し易い状態になっているため、緑化工、谷止工、堰堤工、の緊急治山砂防等を計画的に行い、森林資源の培養と、水資源のかん養、災害の防止等、林業の生産基盤の確立をはかることが必要であり、激甚災害復旧造林を行うため、次の様な施策を設定した。
 二次災害防止対策として緑地工、航空実播工、一六〇ヘクタール水谷止工三基、コンクリート谷止工、十一基、鋼製自在枠工二基、緊急砂防事業計画、木ダム工一基、コンクリートダム二基、この外被害木利用計画、復旧造林計画、林業機械の導入、労働者の需給計画。
 このような計画により着々と被災地の山も緑化して来たが、あまりの大きな災害のため未だ造林が進渉されていない山林もみうける。