一 大雄寺

899 ~ 900
 名称 黒羽山久遠院大雄寺(くろうさんくおんいんだいおうじ)
 宗派 曹洞宗永平寺派
 所在地 黒羽町大字黒羽田町四五〇
 沿革 応永十一年(一四〇四)臨済宗天目山中峰四世劫外久和尚が、粟野宿(現在の余瀬)白旗城東北の地(粟野崎)に創建した。粟野の地名に因んで、粟山大雄禅寺と称した。城の鬼門に当るので、城の鎮護とした。現在その跡地を大雄寺山(だいおうじやま)と称している。
 千葉県印旛郡酒酒井町の浄泉寺に「応永二十二年(一四一五)乙未十一月日、下野図那須粟山大雄寺」の銘のある雲版(酒々井町指定文化財)がある。大雄寺の法器がどうして浄泉寺にあるのか、不明である。
 応永三十三年(一四二六)、福原城主那須資之と弟の沢村城主那須資重が不和となり、戦い交えた際、兵火に罹って建物悉く焼失した。その後文安五年(一四四八)に、白旗城主大関美作守忠増が同地に再建した。これより同寺は大関氏の檀那寺となった。
 天正四年(一五七六)城主大関安碩高増が、白旗城より黒羽城に移った際、ともに当寺も黒羽の現在地に移築した。寺は丘陵を切り崩した中腹にあり、周囲に土塁をめぐらし、城砦としての役を果すように構築されていて、その規模は全く余瀬の旧跡に似ている。
 大田原氏に急襲され石井沢に自刃した、大関増次を同寺の中興開基とし、法号は久遠院殿超山道宗大居士、寺は黒羽山久遠院大雄寺と称した。そうして在室玄隣大和尚を中興の開山とし、曹洞宗に改めた。光厳寺の大虫和尚に帰依した入道未庵高増だけは光厳寺に葬られたが、大雄寺は世々大関氏の菩提所である。
 建造物 総門、本堂、御霊屋、回廊、鋒楼大庫院、坐禅堂、経蔵等があり、よく禅宗の寺院様式を保っている。栃木県指定の文化財である。
 境内 寺院西側に黒羽藩主大関氏累代の墓地がある。近世大名の墓地として存在価値の高いものである。浄法寺図書高勝(桃雪)の墓もある。
 住職 倉沢良一

大雄寺(七堂伽藍は室町時代の様式)