一 光厳寺

903 ~ 904
 名称 正覚山実相院光厳寺(しょうかくさんじっそういんこうごんじ)
 宗派 臨済宗妙心寺派
 所在地 黒羽町大字寺宿三〇三
 沿革 伝えによれば、那須余一宗隆が、唐の僧侶一円(いちえん)禅師(開山第一世)を招いて、高館城の南、長谷田の地(長谷田の西方の台地、大輪街道の上)に建立したのに始まる。その後衰微したが、康元二年(一二五七)福原城主那須資村が同寺を現在地の寺宿(てらじゅく)に移し、鎌倉建長寺の可翁(かおう)禅師を招き中興開山とした。寺号を正覚山実相院光厳寺と改め、寺領千石を寄進した。資村は後に当山に隠居して光厳寺殿と称した。死後同寺境内に葬られ、法号を光厳寺殿光公大禅定門という。なお同寺内には九院(付属の小庵)あって、その中の正光院は、文和四年(北朝、一三五五)二月、京都東寺の合戦に討死した那須資藤が開基したものである。
 那須氏の没落とともに寺運も衰えたが、黒羽城主大関高増が、京都妙心寺より大虫宗岑禅師を招いて法燈を輝かせた。禅師の語録「長沙録」は天下に名高い。墓所も同寺にある。高増深く禅師に帰依し、剃髪して入道未庵と号した。(『未庵記』がある)慶長三年(一五九八)十一月十四日卒し、法号栽岩道松弘境院、同寺に葬られた。夫人献宝院(佐竹四郎義元の女)の墓も同寺にある。
 建造物 山門、本堂、庫裡
 山門の両脇に仁王像(金剛夜叉王で、右開口、左閉口)を安置している。金剛夜叉王は大日如来の変化である五大明王の一つで、一切の悪鬼を慴伏する力を持ち、忿怒の相を現わしている。この仁王像は、もと那須神社(金丸八幡宮)の楼門の左右にあったものであるが、明治初年神仏混淆が禁止されたので、旧藩主大関増勤より当山に寄進されたのである。
 本尊仏 聖観世音
 寺宝 天目茶碗「烏盞梅月」、高増愛用の杖、椀などがある。「烏盞梅月」は開山一円禅師が唐より持参のものと伝える。これに酒を注げば、底に金色の日輪が現われる。「梅月」の名は、梅の枝に月が懸かったように見えるからだという。「烏盞」とはこの焼物の原産地中国の「建盞」の焼物名から出たといわれる。
 梵鐘は、三度改鋳されている。享保八年(一七二三)三月、大関宇衛門が改鋳したのが(工匠吉清)現在に伝えられている。(『鐘銘』)
 境内 本堂の西側に、那須氏の墳墓と称せられている地域がある。五輪塔十基は、資村、資家、資忠、資宗、資藤、資世、資氏、資之、氏資、資親に至る十世のものと推定される。(『わがふるさと』)