宗派 臨済宗妙心寺派
所在地 黒羽町大字雲岩寺二七
沿革 雲巌寺の旧記によれば、当寺は崇徳天皇の大治年間(一一二六~一一三〇)に、山城の禅林寺永観律師の高弟叟元和尚の開基である。和尚は三論(中論、十二論、百論)に精通し、五十余歳のころ関東に行脚し、常陸の筑波山に草庵を結んで籠ること久しかった。その後下野に来て当山を開いた。その徳を慕って四方から集る雲水は三百名の多きに達したという。老後は諸宗の教学を棄て、もっぱら読経礼拝に日を送り、保延元年(一一三五)六月、七十一歳で示寂した。里人は安然仏と称した。
その後法燈を継ぐ者がなく中絶して、諸宗の僧侶が雑居した。山伏勝頼という者が長く住んでいたが、後嵯峨天皇の第三皇子仏国国師が行脚して当山に来たので、勝頼は国師に弟子の礼をとり、当山を国師に献じたという。弘安六年(一二八三)に執権北条時宗が大施主となって、仏国国師が禅林として再建した。ここの地形が中国の蘇州虎丘山に似て千丈岩があるため、雲巌寺と号した。これより塔堂も整い法燈が輝き、国師の名声を慕って来山する僧徒一千を数えたという。
仏国国師は仁治二年(一二四一)に生れ、十六歳で出家し、内外の典籍を学び、苦行修練を積んだ。当山を開いてからも鎌倉幕府の命により、鎌倉の諸名刹に於て法を説いた。晩年東山の正宗庵に戻り、正和五年(一三一六)十月二十日、七十六歳で示寂した。遺偈は、
「坐脱立亡、平地骨堆、虚空翻筋斗、刹海動風雷」
第二世仏応禅師は、建治二年(一二七六)、黒羽町大字大豆田の礒家に生れた。五歳の時に父が死去したので、以後雲巌寺に預けられ育った。出家して仏国国師について修行、また諸国を行脚して修養を重ね、後に国師の後を継いだのである。嘉暦二年(一三二七)九月二十四日、五十二歳で遷化した。遺偈に「末後一句、向下文長、処処無跿跡、地獄与天堂」
その後当山は戦乱の世にあい寺運は衰えていったが、天正六年(一五七八)妙心寺派の勅謚無住妙徳禅師を住職として招いた。これにより当寺は京都妙心寺派となった。
天正十八年(一五九〇)、秀吉の小田原城攻略に従わなかった烏山城主那須資晴は、城を没収されて佐良土に移された。その時に資晴は雲巌寺に拠ったと告げた者があったので、秀吉はこれを信じ、兵を遣わし火を放ち、寺院を焼失させ、その上寺領をも没収した。これにより寺運大いに衰えたが、時の住持無住妙徳禅師はその後熱心に寺門の復興に努力したが昔日の盛観を見ることはできなかった。禅師は中興開山と称せられる。
徳川時代に至って、将軍家光は百五十石の寺領を給し、寺は代々これを相続した。弘化四年(一八四七)不幸にも再び火災に罹り、方丈、庫裡を焼失したが、嘉永二年(一八四九)再建された。天正の兵火後仮建築であった釈迦堂は、腐朽ひどかったので大正十一年(一九二二)に改築(鎌倉時代末期の様式にならい)された。昭和二十六年、山門前の瓜〓(かてつ)橋が架け替えられ、同五十五年には坐禅堂が新築された。
建造物 本堂、方丈、庫裡、山門、鐘楼、釈迦堂、三仏堂、坐禅堂、その他
雲巌寺(瓜〓橋と山門)
雲巌寺近傍略図