心月山長渓寺は、黒羽町大字八塩にあったが、明治十四年(一八八一)に大雄寺に合寺されて廃寺となった。その沿革は、慶長十五年(一五三六)、黒羽城主大関弥平治政増の創建であって、大関右衛門佐高増が那須資晴と謀って、千本常陸介資俊、同十郎資政父子を烏山の滝の太平寺に誘って殺害した。(天正十三年)その怨霊が資晴と高増に祟(たた)るということで、千本父子の供養のために建立したいわれのある寺である。
山号の「心月」は常陸介資俊の法号からとり、寺号の「長渓」は資政の花渓長秀からとった。寺の建立の由来はその梵鐘(大雄寺に納めたが、太平洋戦争中に金属回収のため供出してしまった)の銘に刻まれてあった。『創垂可継』の作事奉行勤め方の中に、御普請か所として、「一、長渓寺 客殿」と記されている。