黒羽町大字余瀬の現在津田氏宅地が、修験光明寺跡である。
那須余一宗隆は、源義経の配下にあって屋島の戦いに出陣するに当り、山城国伏見にある光明山即成院に参籠して、阿弥陀仏に武運の長久を祈願した。扇の的を射落して武名を天下に響かせることができたので、帰国後の文治二年(一一八六)、粟野宿(余瀬)のこの地に阿弥陀仏を勧請して、伏見の即成院の名をとり、即成山光明寺を建立した。余一宗隆が即成院に参籠したのは、寺領(荘園)が那須郡にあったその縁故によるという。
その後光明寺は廃絶したが、永正のころ、烏山城主那須資実が上洛した際、近江国大津において親交を結んだ天台宗の僧、無室なる者を伴って帰国し、先祖ゆかりの光明寺を再興した。無室(織田信長と同族の津田氏)は天台宗なので、寺を修験道に改め、津田源弘と称した。子孫代々大関氏に仕えた。慶長五年(一六〇〇)七月、石田三成挙兵の際、那須七騎は人質を江戸に送り、徳川家康に忠誠を誓った。大関左衛門佐資増が送った人質の中に「津田光明院源治 妻」の名がある。(『継志集』)
鹿子畑高明(桃雪、翠桃の父)の女は、権大僧都法師津田源光の室であった。元禄二年(一六八九)四月、芭蕉は余瀬に来て、翠桃の案内で光明寺を訪れた。そうして境内の行者堂に安置されてある、役の行者(えんのぎょうじゃ)のゆかりある一本歯の足駄を拝み、長途の旅の平安を祈ったのである。(『おくのほそ道』)
夏山に足駄を拝む首途(かどで)哉 芭蕉
汗の香や衣ふるわん行者堂 曽良
の句がある。
また元禄九年(一六九六)に光明寺を訪れた桃隣は、「手に足に玉巻く葛や九折(つづらをり)」の句を詠んでいる。
光明寺の西側、林の中に津田氏累代の墓地がある。芭蕉来訪時の当主源光の墓碑や、新善光寺跡出土の正安の板碑が建っている。
当寺は明治維新の際廃絶し、津田氏は帰農した。寺跡に昔を偲ばせるものは、土手の登り口に僅かに残る燈籠の礎石のみである。その傍に「夏山に」の句碑が建っている。