五 修験大正院

909 ~ 910
 この寺院は黒羽町大字余瀬字本町にあった。明治維新の際廃絶した。寺僧は還俗して白旗信義と名のり、他に移住してしまった。寺院の跡は水田と化し、今に伝えて大正院屋敷と称している。
 寺号を白旗山東泉寺大正院滝本坊と称する。治承年間の創建である。『創垂可継』の「封域郷村誌」には、寺社由来として次のように記されてある。
(参考)
       余瀬村白旗山東泉寺大正院由緒
 開基源信と言えるは、羽州の住人にして佐藤八郎源信と言う。佐藤庄司の甥なり。治承四年源の義経朝臣奥州より興起の時従奉のうちなりしが落馬して身を打損じ行歩叶わず此処に止り修験と成り大正院開基す。
 六世源保と言いるは正安三年生れ百六歳を保ち寛永拾四年六月拾五日遷化すと言う。
 十二世源誉は大永参年に生れ寛永拾六年四月拾八日百拾七歳にて迂化すと言う。
源誉長寿故 清増公日光御参詣の時供奉し御帰城後褒美として熊久保屋敷を賜う。其時の御直書写し
 たきもとにやしきいただきむかいしゆく
 くまくほたちわきやしきにても

  二月拾日  大美作守清増判
        た寸(き)之殿
湯泉免賜わりし御直書写し
 よせのひかしゆぜん年ぐの儀
 たきもとにて合力により其の意得べく候
 為其一筆以上
            清増御判
   五月拾一日
         木伐
         光明寺
         た寸(き)之殿

 右の文中「た寸(き)之殿」とは、大正院滝本坊のことである。源昌の代に至り、寛永二年(一六二五)、余瀬に疫病が流行したので、源昌はこれが防除のため、宿場の中央に仮屋を建てて、白旗薬師観音をここに移し祈祷したところ、患者は全部平癒した。そこで仮屋の場所に薬師堂を建立し、源昌自彫の薬師像を本尊として安置、村内安全の仏と崇敬した。現在石造の小祠に造り替えてある。